佐藤優「獄中記」

獄中記
獄中記佐藤 優

岩波書店 2006-12
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star強靱な精神力に脱帽
star知性と行動、そして外交の失策。
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 しかし佐藤優氏の書く文章は、どうしてこれほどまでに読者を引きつけるのだろうか? 
 以前、佐藤優「自壊する帝国」という本の書評の際に、佐藤氏の文章について次の2点に整理した

  1. ポイントを絞り、分かり易く説明する能力が飛び抜けて高い
  2. そしてポイントポイントに「うーん、まいった!」と唸らされるような教訓や洞察をさらりと述べる

 しかし本書を読んで、佐藤氏の文章の秘密はもっとあるような気もしている。わたしにはまだそのポイントが分からないが。
 いくつかの書評には「(本書を)一気に読んでしまった」と書かれていたが、一気に読むには本当にもったいない本だ。思考レベルは一級の学術書に匹敵するので、じっくりと、時間をかけて丹念によまれるべき本だ。
 気になった言葉のいくつかを引用し、コメントをつけてみよう。

ハーバーマスは、社会で人々の合意がうまく達成されるためには、一方が他方に何らかの行動を強制しない状況下での対話が唯一の方法であると考えます。(74p)

 「合意形成」という言葉は一時期、林学の世界で流行ったが、そのアカデミックな議論の根底部分で検討すべきなのが、このハーバーマスの認識であろう。この命題がもし正しいと考えるならば、企業内や地域づくりでの合意形成はほぼ絶望的と言わざるを得ない。職場内では「組織維持」という建前のもとピラミッド秩序によって成立している。そこでの会話は上司と部下であり、「対等な立場での会話をしよう」と口では言っても、システムが変わらない以上、対等関係にはなりえない。地域住民による町づくりといっても、仕事関係上の力学や、これまでのしがらみなどで、対等の関係になるのは困難だ。

…私がどうしても理解できないのは、なぜ、まともな大人が熟慮した上でとった自己の行為について、簡単に謝ったり、反省するのかということです。100年ほど前、夏目漱石が「我輩は猫である」の中で、猫に「日本人はなぜすぐ謝るのか。それはほんとうは悪いと思っておらず、謝れば許してもらえると甘えているからだ」と言わせています。(99-100p)

 これは信念を大事にする人が日本人の中には少ないということであろう。別の言い方をすれば、筋をビシッと通して生きる人が少ないということ。わたしも最近職場で体験したが、口ではいろいろ批判を言っている人でも、いざ行動となるとあっさりとそれを受け入れて平然としている人を見た。言い訳としては、「みんながやっているから」「なんとなく雰囲気で」だそうだ。それを知ったとき、ダウンタウン松本人志風に「ええっっ〜〜〜!マジッスかぁ〜」と仰天してしまった。威勢良く言っていたこれまでの発言は何なの、って。彼に言わせると、最終的に組織に言うことに従うのが、「大人」であり「ちゃんとした社会人」であるという。社会学者の宮台真司的にいえば、そういうヘタレが「大人」であり「ちゃんとした社会人」なんて噴飯ものだ。信念を通すことのできない、そういうヘタレばかりだから、組織は悪くなるし、社会も悪くなるのだ。
 しかし考えてみると、こういう威勢の良いだけのヘタレが一番タチが悪いかもしれない。期待を持たせておいて、最終的には人を裏切るから、もっとも信用できない。何も考えていない人や根っからの悪人よりも。職場にしがみつく人や、地域にしがみつく人たちにこういうやからが多い。そういう人たちの行動様式をしっかり観察し、徹底的に批判していきたい。
 佐藤氏は例外的に信念を大事にする人らしい。佐藤氏の著書「自壊する帝国」で、ロシアの高官だったブルブリスは佐藤氏について「あなたは信念を大切にする人だ(だから重要情報を真っ先にあなたに教える)」と言っている。わたしも佐藤氏のように、自己保身に走らず筋を通せる人間でありたい。

…小泉総理は鈴木宗男が総理の閣僚人事権にまで干渉する「権力の簒奪者」となる危険を感じたのでしょう。しかし、その背後にもっと「大きな力」が働いていると思います。(100p)

 ここでの「大きな力」って何だ? 国家の最高権力者の総理大臣よりも「大きな力」とは? アメリカか? ただ鈴木宗男氏の存在はアメリカにとってそれほど煙たい存在だったのか? 沖縄の海兵隊演習問題で北海道の別海に引っ張ってきて一件落着させたのは鈴木氏だぞ。アメリカは彼に恩があるはず。鈴木氏のロシア急接近にアメリカは警戒心を抱いたのか?
 それとも時代趨勢のことだろうか? 佐藤氏の出世作国家の罠」で繰り返し述べられているケインズ型からハイエク型への社会変化の流れの中で、それにあらがう鈴木宗男という権力が撃たれたのか?

私も外にいるときには速読で一日1500〜2000頁は書物を読むようにしていました。私の場合、速読とはペラペラと頁をめくりながらキーワードを焼きつけていく手法です。目次と結論部分だけは少しゆっくり読みます。対象となるテーマが馴染みのものならば、500頁程度の学術書ならば30分、一般書ならば15分程度あれば読めます。そして、ワープロで、読書メモ(これには20分くらいかかる)を作ります。(171p)

 速読はわたしにとっても課題なので、身につけたい技術だ。しかし500pの学術書を30分なんて本当なのだろうか? 尋常ではないスピードだ。これで本当に身についているとしたら、佐藤氏の頭脳はわれわれとは次元がちょっと違う。ずば抜け過ぎていて、あまり参考にならない。

…仕事への適性というのは3〜5年で明らかになり、10年くらいの経験を積んだところで一応その道で専門家として食べていくことができるかどうかが明らかになります。さらに5年くらい経ったところで、専門家の世界でどれくらいのとろこに行けるかも見えてきます。国際スタンダードで通用する専門家として自己を維持することには、見えないところでの努力が絶えず要求されます。…そして、自分の専門とする世界の全体像が見えてくると、面白さがなくなります。後進の育成を始めるということは、実はそろそろ引退を考えているということです(225-226p)

 これは面白い洞察だ。別の言い方をすれば、3〜5年経ってもダメな若手は不適性で、いつまでたっても使い物にならないということか。
 わたしも自分の専門の業界に入って、研究段階からカウントすると11年になる。もちろんまだまだやるべき課題は多いが、「その道の専門家として食べていく」メドは付きはじめた。あと5年くらい我慢して働いていれば、この世界でどこまで行けるか見えてくるのかなぁ。もう少しか。

ソ連時代、ロシアの反体制インテリは「強い者にお願いをすると、その人間は内面から崩壊していく」と考えたが、その通りだと思う。(247p)

 この表現をわたし流に翻訳するのなら、自分の生き方に関わる重要なことについて妥協してしまうと、自分の生きる道が見えなくなり崩れてしまうということ。やはり自分の生き方にかかわることについて妥協してはいけない。筋を通していかなければいけない。

人間は20歳前後で形成された人柄というのはなかなか変わらないと思う。それから、物事の基本的考え方というのも、20歳代で基本的方向性が定まり、それがだいたい結晶化していくということではないのかと思う。(307p)

 10代の思春期を通して自分の自我が芽生え、それが20代で周囲に揉まれて、われわれの人格の輪郭は決まってしまう。この認識は、わたし自身の体験からも完全に重なる。そうであるならば、 だからこそ10代後半から20代にかけての周囲環境はとても重要になる。
 知り合いが「子供は総合大学に行かせたい」と言っていたが、その気持ちはわたしにもとても良く分かる。総合大学はいろいろな学生が集まる。不思議なことに、文科系の学生と理科系の学生は思考方法が異なることが多い。誤解を恐れずに大雑把に言ってしまえば、文科系は情緒的で、理科系は論理的である。文科系は議論においてあいまいさを許容し、理科系はあいまいさを排除する。また一流の総合大学であればあるほど、学生は全国各地、世界各地から集まってくる。先生もそうだ。自分と異なる他者と接する場として、総合大学はとても優れているのである。
 繰り返しになるが、我々の人格形成は、20代を通して形づくられる。根底からこみ上げてくる自我を抱えながら、他者とふれあい、ぶつかり合いながら、自我をコントロールし社会で生きていくスタイルを作っていく。20代に多様な他者と触れ合えれば合えるほど良い。

小泉改革の経済的に強い者をより強くし「機関車」とすることにより発展を図るという発想では、平等、「弱者」に対する配慮はどうなるのか?…「機関車」論は、ハイエクの考え方に近い。人間には能力の差があるのだから富者と貧者に分かれるのは当然である。そして、その構造は永遠に続く。しかし、経済の発展とともに富者の持っている財を貧者も持つことができるようになるのだから、「時間の経過」という要因を加味すれば、経済発展の利益を皆が享受できる。…この「機関車」論は一見もっともらしく聞こえるが、持続的経済成長が可能であるということが前提条件である。地球生態系の現状を考えるならば、持続的経済成長を前提とした政策は危険だと思う。(321-322p)

 佐藤氏が生態系を持ち出して、ケインズ型経済体制を擁護するのは意外だ。この認識は説得的に聞こえる。
 しかし気になるのは、今の日本の財政状況、またグローバル経済の状況を見ると、佐藤氏が主張するケインズ型公平配分は明らかに短期的にも持続性がない。このあたりはどう整理するのだろう?
 佐藤氏の持ち出した「ハイエク型」と「ケインズ型」という用語を使えば、戦後の日本経済の展開を見ると、2つのタイプの循環が見られるような気がする。戦後日本の経済政策は、傾斜配分方式からはじまった。経済が低迷する中、まずは国家にとって重要な鉄鋼などの産業にたして重点投資をして、それを「機関車」にして経済を引っ張る政策をとった。ハイエク型である。
 しかし高度経済成長も末期に来て、田中角栄が華々しく登場し、日本列島改造論を打ち出して、全国津々浦々の公平配分を始めた。ケインズ主義である。しかしバブルが崩壊し、財政赤字が積み重なると、小泉政権で再びハイエク型が台頭しはじめた。労働などの規制緩和をすすめ、国際企業を強力に後押ししている。
 つまり、わたしの仮説としては、社会の経済政策には一定のベクトル循環があるように見える。戦争などのハプニングがない場合、経済の好不況に合わせて、ハイエク型→ケインズ型→ハイエク型→ケインズ型→……と循環するという仮説だ。少なくとも戦後日本の経済をみていくと、そんな循環が見えてくる。

一級の宣伝工作の場合、「答え」(こっちにとって都合のよいシナリオ)をこちらから提示してはなりません。こちらからは、断片だけを提供し、それにより受け手が自ら組み立てたシナリオがわれわれのシナリオに「偶然」一致するという方向にうまく誘導することが適切です。人間は他者から押し付けられたものよりも、自ら組み立てたものに強い愛着を感じるという本性があるからです。(332p)

 これは外交だけではなく、通常の仕事の営業や交渉などにも使えるテクニックだな。相当高等テクニックだが。こういう手法を使いこなせるようになったら良いな。

過去の歴史において民族間の「被害」「加害」の関係は錯綜しているので、その中からどの要素を繋ぎ合わせて、「物語」を形成するかによって、まったく異なる歴史が生まれてくるのである。(349p)

 本当にそのとおり。日本と北朝鮮ヴェーバーの価値自由の概念を別の言葉で言い換えている。

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