森達也「豊かで複雑な、僕たちのこの世界 森達也対談集」

 思想的スタンスが必ずしも一致するわけではないが、森達也氏の考え方や発言にはハッとさせられたり、考えさせられるものがあるので、彼が出す本などの作品はなるべくチェックするようにしている。先日NHK教育で放送されたドストエフスキー特集で、「カラマーゾフの兄弟」について森氏が含蓄のあるコメントをしていて、この人はすごいな、と思ったばかりである。
 そんなこんなで今日、図書館でブラブラしていたら、彼の最新刊の本書が目にとまったので、興味のある部分だけ流し読みした。本書は森氏と27名の表現者との対談集である。本書での森氏の語り口はソフトだが、なにか対象を包み込むような包容力、説得力があり、ついつい引き込まれてしまう。やはりこの人はただ者ではない。特に、小林よしのり氏との対談、中島岳志氏との対談が印象に残った。しかしこの書評では、敢えてわたしが森氏に感じる違和感を本文に沿って抽出し、森氏を相対化する作業をしてみたいと思う。 


1 戦争はなぜ起きるか

二十世紀以降の戦争は、領土拡大や権益の収奪ではなく、「やらねばやられる」という危機意識と過剰な自己防衛から生じている。
戦争がなくならない理由は、人を殺したり財産を収奪したりという悪意がその根底にあるからではなく、正義や大儀などの善意が根底にあるから。(183p)

 これらの森氏の指摘には「なるほど、そうかもしれない」と思った。なかなか鋭い指摘だと思う。
 しかし、である。たしかにそういう面があるかもしれない。しかしほんとうにそれだけであろうか。「二十世紀以降の戦争」=「危機意識から発生」という論理式は、本当にすべてに当てはまるのだろうか。「戦争の根底」=「正義や大儀などの善意」とすべてがすべて言えるのだろうか。わたしはここに大きな疑義を持つ。
 森達也氏は学者ではないので、過去の戦争を一つ一つ事例検討をして、帰納的にこの結論を引き出しているのではない。その証左として、この対談で出されている事例はあまりに少ない。印象論としてこの結論を引き出しているように見える。わたしはここが、ものすごく引っかかる。印象論は論理的には弱いからだ。
 逆に言えば、「やらねばやられる」という危機意識を持たずに、相手と対話を続けていれば戦争は起きないのだろうか。悪意からの戦争は本当にないのだろうか。わたしはとてもそう思えない。
 近い事例でいえば、最近は少女刺殺事件や無差別殺人など善意のかけらもないような事件が目立つ。森氏はこれら事件の殺人犯も、善意から人を殺しているというのだろうか。もちろんこれら殺人事件は国家対国家の戦争ではないが、国家も独裁国家なら独裁者の一言ですべてが動いていく。これら殺人事件のような悪人が独裁者なら、悪意から戦争が起こることもあるのではないか。
 具体的な戦争の例を出そう。たとえば第二次世界大戦末期のソ連の対日本戦争はどうだろうか。スターリンが対日戦を決断したときは、すでに広島に原爆が落とされており日本は敗戦確実だった。あの状態から日本がソ連を攻めていくことはありえず、ソ連にとって「やらねばやられる」という状況ではなかった。それなのになぜソ連は対日戦争を決断し、樺太どころか、平時に両国によって決められた択捉島の国境線を超え、北方四島まで占領したのであろうか。領土拡大や権益の収奪以外に理由はあるのだろうか? そこには「正義や大儀などの善意」のかけらもなく、「財産を収奪したりという悪意」こそがあるのではないか。
 このように森氏のロジックは、少し考えるだけで反証が見つかる。すべてすべての事例に当てはまるものではない。


2 楽観的過ぎる森氏のスタンス

…僕はいまの世界で、武力を持たないからとの理由で、国家が他の国家を侵略することは絶対にないと思います。攻めるときは危機意識が高揚したとき、つまり日本がその国にとって仮想敵国になったときです(186p)

 このあたりの問題意識は、わたしとはまったく違う。「武力を持たないからとの理由で、国家が他の国家を侵略することは絶対にない」なんてどうして言い切れてしまうのか? どこにその保障があるのだろうか?
 森氏は日本が諸外国との対話をしっかりしていけば、日本が仮想敵国となることはないと考えている。現在、国際連合に加盟している国は192か国もあるが、対話をすれば、どこの国ともうまくやれると思っている。そんなことあり得るだろうか?あまりにも楽観的過ぎないか。たとえば森氏自身の人間関係で、険悪な人間関係はひとつもないのだろうか? そんな聖人君主みたいな人なのだろうか?
 利害関係が対立しなくても、気が合う、気が合わないというレベルの人間関係もある。外交は人だ、としばしば言われる。そうだとすれば、人間関係の気の合わなさが国家の気の合わなさとなっても不思議ではない。そして何かのきっかけに衝突が起こってしまうこともあり得る。ましてや世界にはさまざまな価値観があり、北朝鮮などの独裁国家基本的人権さえ踏まえない。そんな国と対話でうまくやっていけるのだろうか。
 森氏の主張のもっとも弱い部分は、「もし対話がうまくいかなかった場合」「もし相手が攻めてきた場合」の処方箋がまったくないことだ。ここの部分の議論がすっぽり抜け落ちている以上、現実論として社会が受け入れることは難しいと考える。


3 戦争が起こる他の理由①人間のもつ欲望と嫉妬
 戦争が起こる本質的な理由は、森氏が指摘した「危機意識から発生」「正義や大儀などの善意」のほかに、人間の欲望や嫉妬の問題があると考える。つまり戦争の根底には、人間が持つ、どうしようもない欲望や嫉妬という側面があるように思えてならないのだ。他者を蹴落としても豊かになりたい、人を支配したいなどの欲望は、根底のところで人を支えているような気がしている。こういう人間の陰の部分を、森氏をはじめとする安易な平和主義者の人たちは認めようとしない。
 また「隣の芝生は青い」という諺があるように、人間はどうしても他者との比較の中で自分を位置づけるし、他者が良く見えてしまうことも多い。そこに嫉妬が生まれる。こんな人間の欲望や嫉妬がタイミングとして国家システムの動きに見事はまってしまったとき、戦争という暴力行為が発動するような気がしている。


4 戦争が起こる他の理由②罪と罰の問題
 戦争が起こる理由には、復讐という要素もある。社会学者の宮台真司は著書の中で「『人を殺してはいけない』というルールが共有されたことは、人類の歴史に一度もありません。代わりに『仲間を殺すな』と『仲間のために人を殺せ』という血讐のルールがあり続けてきました」(「これが答えだ!」118p)と述べている。つまり「やられたらやりかえせ」という態度が人類史上の常識だったのである。
 それを安易な平和主義者の方々が言うように、やられてもやりかえさなかったら、どうなるだろう。そこには「やられた者損」という現実だけが残る。たとえば考えてみよう。もし一方的に日本が侵略されて、自分や自分の家族や友人が殺されたり傷つけられたりしら、どう思うか? それでもあなたはやりかえさないでいられるか。
 最近の事件でいえば、光市母子殺害事件が印象に残る。この事件で妻と子を殺された夫は「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」と述べた。最愛の人を亡くした側として、当然の心情だと思う。わたしも同じ立場になれば、同じ発言をするだろう。
 「やられたらやりかえせ」という態度は、あるべき倫理基準から見れば、もしかしたら低次の態度なのかもしれない。しかし人間はそんなに貴高くなれるのだろうか? わたしは凡人なのでなれない。他の人はどうであろう。口では何とでも言えるが、いざ自分がその立場になれば何人の人が倫理観を貫くことができるのか。わたしはそこが非常にあやしいと思っている。
 一方で、加害者の側に立ったらどうだろうか。もし復讐がなかった場合、加害者はどう思うのだろうか? 相手に復讐されなくても、次第に自分の中に罪の意識が芽生え、心から反省するのだろうか。ドストエフスキーは主著「罪と罰」の中で、殺人を犯した主人公ラスコーリニコフの心境の変化を描いている。当初は「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論を展開し自信満々だったラスコーリニコフだが、時間を追うごとに罪の意識にさいなまれ、発狂寸前、押しつぶされそうになる。この作品でドストエフスキーは、人間は本源的に罪の意識をもっているのだと主張し、人間存在に対する希望を見出そうとした。
 この作品はとても立派な作品なのだが、しかしすべての犯罪者に対してこれが当てはまるかどうかは留保しなければいけない。サリン事件を起こした麻原彰晃氏はほんとうに罪の意識に苛まれているのだろうか。附属池田小学校で乱入無差別殺傷事件を起した宅間守氏は、どれほどの罪意識の中で死刑執行を受けたのだろうか。もし罪の意識がなかったら、罪の意識が低かったとすれば、まさに被害者の側は「やられた者損」だ。やられてもやりかえさなかったら、ますます「やられた者損」だ。
 このように加害者側と被害者側には、加害行為に対する悲しみの非対称性の構図があり、これが被害者から見れば「やられた者損」と映る。そうであるからこそ、その悲しみを少しでも穴埋めるするために、相手への復讐を誓う。これが被害者心理の一般的な現状ではないか。その気持ちを頭ごなしに批判することなどできるのだろうか?
 冒頭の森氏の発言に戻ろう。このように「やられた者損」という現状がある以上、人間はやられないために自己防衛的になる。やられないように準備し、振舞う。それは本当にいけないことなのだろうか。森氏のように一概に否定してしまって良いのだろうか。


5 森達也氏の国家観
 森氏は国家を相対化する。

国民国家の歴史なんて300年程度、それ以前はなかった。天賦のものではない、人類が生きるシステムとして国家が突出し過ぎるとことに警戒心があある(171p)

 これには私も賛成。国家を相対化し、「国家が突出」することを警戒するのは近代人に必要な素養だと考える。
 しかしだからと言って、国家そのものを否定することはできない、とわたしは思う。そうであるから、上記の指摘から森氏が「国家システムを前提に議論することは疑問」と展開するところでわたしと異なる。現在の世界システムが国家を前提に成立している以上、少なくとも、次のより良きシステムが登場するまでは国家システムを前提に議論するしかないのでは、とわたしは思う。もちろん国家は万能ではない。国家システムは時に多数の国民を犠牲にする。他国に対しても時に牙を剥く。それは明治以降の日本が経験してきたことだ。しかしそのような欠点があるからと言って国家システムを全否定することは現状においてはできないし、すべきではないと思う。当面は国家システムでやっていくという前提のもとで、国家の暴走をどう抑えていくかという議論をするのが生産的な議論だと思う。
 わたしが森氏に感じる違和感を一言でいうと、「べき論」が先行し過ぎるということだ。理想論を語るのは大切なことだが、現実がこれとはかけ離れている中であまりに性急に理想を急ぎすぎると、ウェーバーがいう「意図せざる結果」になってしまうのではないかと危惧を抱く。
 その点、小林よしのり氏の発言はしっかりしていて、少し見直した。「国家は固有の領土と国民を持つ共同体」(185p)と定義を踏まえ、実感を踏まえ意見を言うのでなかなかの説得力があった。
(私の本書の評価★★★★☆)
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