理解社会学について

 マックス・ヴェーバーの概念整理のつづき。今日は理解社会学という方法論を考えたい。
 理解社会学とは、わたしの理解でいえば、社会を動かすのはそれを支える個々人の内面的な動機づけだという問題意識のもと、個々人の内面的な動機(倫理観や道徳観)にスポットをあて社会現象を分析する方法論のことである。行為の理論とも言われる。この方法論の特徴を理解するには、アダムスミスやマルクスの方法論と比較すれば良いだろう。
 アダムスミスは、自己の利益を最大化しようと努力することを通して、人々は「見えざる手」の働きによって結果として社会公共の利益に奉仕すると提起した。ここでは人間の行為動機を利己心という単純化し一元化することで、社会科学的な手法を確立させた(マックス・ヴェーバー入門,11p)。またマルクスは、社会科学の主たる認識対象は経済的土台構造とし、主観の領域は考察の枠外に排除することで方法論的に成功した(入門、13p)。つまり二人とも資本主義システムの分析において、人間の行為動機を単純化または排除することによって、この問題から逃げてきたのである。しかしヴェーバーはこの問題に正面から対峙した。
 ヴェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、市場メカニズムが存立する条件として、社会の個々人の、内面的な―つまり、倫理的、道徳的な―動機づけが必要という問題意識を据えて、この部分の分析に心血を注いだ。恐るべき情報量とそして理念型というモデル操作を駆使して、ヴェーバーは名著「プロ倫」を描ききった。そしてその後、宗教に対する関心を深め、対象領域を広げていった。ヴェーバーの仕事の背骨になっているのは、「宗教によってもたらされる観念の力が、歴史において偉大な作用を果たしてきた」(入門、19p)という確信であり、その思いをものの見事に、社会科学の方法論まで高めフレームワークしたのである。
 理解社会学に初めて接したとき、わたしは衝撃を受け、「このような研究をしてみたい!」と強く思った。そして自分の研究に応用できないか真剣に考えた時期もあったが、まったく形にならずに終わってしまった。まずこの方法論について理解するのが精一杯で、とても応用まで行けなかったことがある。またわたしが事例としていた北海道において、ある一定度共有されている倫理観や道徳があるのだろうか?というのも悩みの種だった。日本は、ヨーロッパのキリスト教のように、ひろく生活の隅々まで宗教空間があるわけでもない。宗教に変わるものって日本で何?

マックス・ヴェーバー入門
マックス・ヴェーバー入門山之内

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