価値自由(Wertfreiheit)と理念型(Idealtypus)について

 昨日、社会学の泰斗・マックス・ヴェーバーについて触れたが、わたしの知的好奇心が刺激されたこともあり、彼の提唱した概念について、ここに整理しておきたい。もちろんわたしは今は研究者ではないので、ここで新しい解釈に挑戦したいとか思っているわけではなく、ただ単に備忘録的位置づけでこれまでのヴェーバー解釈をなぞり、わかりやすく整理したいだけなのである。わたしの今後の論文に役立つことを信じて。
1 価値自由(Wertfreiheit)と理念型(Idealtypus)
 どちらとも「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」で提起されている有名な概念。社会学を目指すものなら、この概念を知らずして社会学は語れない。それほど社会科学の世界に大きな影響を与えた概念である。わたしも個人的にかなり影響を受けた。
 価値自由と理念型を並べて書いたのはわたしの判断だが、それは、この2つの概念がヴェーバーの認識論のなかで非常に近い距離にある概念だと思うからである。
2 価値自由とは何か
 まず価値自由は、多く誤解されているように「どんな価値観をもっても良いんだよ」みたいな安易なリベラリズムとはまったく、全然、何にも関係なく社会事象の認識にあたってはその前提となっている己の価値基準をスルドく自覚しなさい、というのが正しい理解である。認識や判断にあたっての出発点には自分なりの価値基準が必ずあるから、その価値基準をあいまいにしたまま認識してもそれは科学的な認識とはいえない。わたしの好きなヴェーバーの言葉でいえば、

「(自分がそれによって)実存を評価し、(そこから)価値判断を導き出す究極最高の価値)規準が、いかなるものであるかを、つねに読者と自分自身とに、鋭く意識させるように努める…」(客観性論文、46p)

 このように価値自由はまっとうな認識論のことであるが、「価値自由」という言葉の響きがこれまで多くの誤解を生んできたことも確かである。ヴェーバーが使った「Wertfreiheit」というドイツ語を日本の訳者が「価値自由」と訳したことが原因だが、これが「価値自覚」みたいな言葉で当初から訳されていたらだいぶ状況は違っていたように思われる。
 いずれにせよ価値自由は上記のような意味だが、自分の思考の出発点の価値関係が分かったところで、その後の論理展開をどう築いていくかという段階において、次なる概念「理念型」に登場いただこう。

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3 理念型とは何か

 理念型とは、自分の価値基準の地点から見える社会事象のいくつかの要素を取り出し、その特徴を際立たせ、それらを論理整合性を持たせる形で構築した概念モデル、のことである。ともっともらしいことを書いたが、具体的にどのようなモデルなのか、わたしもまだ100%理解できてはいない。しかしたとえば、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のテーマである、キリスト教プロテスタントカルヴァン派の中から資本主義を支える精神が育まれてきた、という論理展開、この全体が理念型なのではないかと思っている。もちろんこの立証に使った様々な事例も一つ一つ見ていけば理念型なのだろう。
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 理念型は、純粋理論上の概念に過ぎないので、それが実際に当てはまるという概念実在説を否定する。ヴェーバーの言葉を借りれば、

「思考によって構成されるこの像は、歴史的生活の特定の関係と事象とを結びつけ、考えられる連関の、それ自体として矛盾のない宇宙(コスモス)をつくりあげる。内容上、この構成像は、実在の特定の要素を、思考の上で高めてえられる、ひとつのユートピアの性格を帯びている。」(客観性論文、111〜112p)

4 ヴェーバーの議論の強さの秘訣
 わたしはヴェーバーの論理の強さのひとつは、この理念型という方法論にあると思っている。概念実在説を否定していることで、「今の世の中にはこんな事象もあるからヴェーバーの言っていたことは間違いだ」という事例を持ち出しての批判がヴェーバーには通用しない。実際にプロ倫の論旨に対して、反証を持ち出して(どこかの本に書いてあったという)「ヴェーバーのプロ倫はまちがっている!」と得意げになっている先輩を見たことがあるが、彼の話を聞いても、プロ倫の全体の論旨はゆらいでおらず、全体の中の一部の引用の仕方がまずいことを拡大解釈して「プロ倫は破綻した!」と無意味に騒いでいるだけだと思った。しかもその人は理念型の何たるか、価値自由の何たるかがまったく分かっていないように思われ、学問的誠実さを持たず、奇をてらうだけの人だなと思った。
 もう一度繰り返す。理念型は価値自由とセットになる中で、特定の価値基準から見たときに集まってくる要素を論理整合性をを持たせる形で構築した概念に過ぎない。それはユートピア的な性格をもち、「ここに描かれたとおり正確にそのまま行われた事例が一つもなかったとしても、もちろんかまわない」(「プロ倫」75p注1)し、また違う立ち位置から見た場合、資本主義経済の駆動力についてまったく違うように見えても構わないし、もっと言ってしまえば違うように見えることが当然なのである。この反証をゆるさない緻密な概念設定の仕方が、ヴェーバー学の強さの秘密であるし、最大の魅力でもあろう。

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