夏目漱石「坊っちゃん」

坊っちゃん
坊っちゃん夏目 漱石

おすすめ平均
stars果たして坊ちゃんは敗退したのか??
stars不器用でもすがすがしい
stars青春小説
stars誇り高き益荒男
starsぽっかりと哀しい

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 むかし流行った歯磨き粉の宣伝で、芸能人の東幹久と高岡早紀が共演し「芸能人は歯が命」とのたまう宣伝があった。コミカルな演出で印象に残るものだったが、「・・・は命」というフレーズつながりでいえば、「小説は出だしが命」と言われており、それは「芸能人は歯が命」という言葉よりも真実性が高いだろう。小説の印象は、出だしの言葉で決まってしまうと言っても過言ではない。これまでの小説家は出だしの重要性を骨身に染みて知っているがゆえに、出だしの言葉をどうしようかと悩み嘆き苦しんできた。有名な出だしには川端康成の「雪国」がある。それはこんな書き出しだ。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。・・・

 この出だしも印象的だが、しかし本作品「坊っちゃん」の出だしもこれに負けないくらい秀逸である。

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある・・・

 本作品の主人公・坊っちゃんは無鉄砲な江戸っ子気質の持ち主で、この冒頭の勢いそのままに物語は展開し、そして全力疾走で駆け抜けていく。
「口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた(8p)」「あんまり腹がたったから、・・・叩きつけてやった(8p)」という、坊っちゃんの竹を割ったような性格。この白黒をはっきりさせたがる性格は一見青臭くも見えるが、一方でなぜか心が洗われるようなすがしさがある。校長の狸、教頭の赤シャツ、画学教師の野だいこ、英語教師のうらなり、数学主任教師の山嵐と、キャラクター設定がはっきりした脇役がしっかりと物語を動かしていき、そして怒涛の結末を迎える。本作品は、若き日の夏目漱石の実体験を下敷きに作られた、近代の日本文学の最高傑作のひとつであろう。
 この小説が魅力的なのは、勢いがあるからだけではない。近代を代表する小説家・夏目漱石のキラリと光るハイセンスな表現が随所にちりばめられている。たとえばモノの例え。まれに見る美女を表現するとき。

何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみた様な心持ちがした(104p)

 また近代批判とも取れる、ドキッとするような言葉を坊っちゃんやその同志の山嵐に言わせる。

考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。わるくならなければ社会的に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう」(68-69p)
心にもない御世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして・・・(134p)

 わたしの職場にも赤シャツのような卑怯な人間が複数人いる。そういう輩の息の根をどう止めてやろうかと策を練っているところだが、読んでいてふと、不安になるのは、自分も知らず知らずのうちにこんなズルい人間になってやしないだろうかということである。過信は禁物で、つねに自己反省が求められていることを肝に銘じなければいけない。
 そしてこの小説を見事なものにしているのは、余分なものを一切はぎ落とした、見事なまでの終わり方であろう。坊っちゃん山嵐は宿敵の赤シャツと野だいこをボコボコに殴ってやっつける。その決闘からわずか2pで物語は終わる。二人は辞表を出し、そして東京行きの汽船にのる。山嵐とは東京で別れたきり会っていない。坊っちゃん家の下女・清と再会し、一緒に暮らし、そして清が死に埋葬する。

だから清の墓は小日向の養源寺にある(179p)

 このように実にあっさりと、すっきりと物語を閉じる。余計な言葉を一切そぎ落として、必要最低限の言葉で紡いでいくのが文章法の真髄であるならば、まさに「坊っちゃん」は最高レベルの作品なのである。

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(私の本書の評価★★★★★)
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