山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」

マックス・ヴェーバー入門
マックス・ヴェーバー入門山之内

おすすめ平均
stars評価は難しい。
starsニーチェ・ファンにも勧めたい
stars師に反逆!
starsラディカルな問題提起を行った好著
stars「近代」批判者としてのウェーバー

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1 社会学の泰斗・ヴェーバー
 理解社会学、理念型、価値自由などさまざまな方法論や概念を提出して、今や社会学の泰斗と評されるマックス・ヴェーバー。彼の考え方を知るには、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」など彼の主著を読むのが一番だが、周知のとおり、その著書は難解で、よほどの専門性を持った人でないかぎり読み切るのは難しい。たとえばプロ倫を読みきるには、キリスト教やヨーロッパの社会状況について相当な知識が事前に必要だ。忙しいサラリーマンなどは難し過ぎて、ほとんどの人はすぐに投げ出してしまうだろう。
 わたしは幸運にも、学生時代の自主ゼミで仲間と輪読ゼミをひらいて、詳しい人に来てもらい手取り足取り教えてもらったので、これらの著書を何とか読みきることができた。そしてヴェーバーの考え方に大きな影響を受けた。特に価値自由(Wertfreiheit)という考え方はわたしの内面に深く刻印されており、今でも、わたしが議論するときの前提になっている。この影響があまりに強いので、「これはこうなんだ!」とか「絶対そうだって!」と断定口調でいう人に対して、わたしは「この人わかってないなぁ」と思うし「アホやなぁ」と思うし、あまりクドい人には嫌悪感すら抱く。
2 「マックス・ヴェーバー入門」を手に取るまで
 わたしはなんとか彼の著書を読んだが、もちろんそれでもヴェーバーの論旨をどれだけ読み込むことができたかははなはだ怪しい。当時はヴェーバーが語りかける言葉を一つ一つ意味をフォローしながら追っていくのが精一杯で、全体の論旨を把握することや、行間でヴェーバーが言いたいことなどを深読みすることもほとんどできなかった。あるときは、たった半ページの解釈について、3時間ぐらい議論をしたこともあるのに!である。そこまで丁寧に読もうと努力してもなかなか理解が進まない。
 それはわたしの頭の悪さはもちろんあるが、とにかくヴェーバーの文章が難解という側面もある。ヴェーバーは、論理的整合性をとことんまで突き詰めて文章を書く。だから分かりやすく噛み砕いて表現したり、単純化してイメージしやすくするなどの表現がほとんどない。とにかく文章がガチガチで読みづらい、というのがわたしの印象である(これはヴェーバーに対する印象であるとともに訳者である大塚久雄氏らに対する印象でもある)。
 そんな苦闘の学生時代だったが、いまサラリーマンになって6年目を迎え、ふとヴェーバーに触れてみたくなった。わたしの内面に多大な影響を与えたヴェーバーに久しぶりに再会したいと思ったし、今ならヴェーバーの主張が以前よりも深く理解できそうな気がしたのである。しかしそれはとんだ思い違いだった。
 まず「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」を手にとったが、すぐに挫折した。言葉が頭に入ってこないのだ。粘って読み込もうとすると頭が痛くなる。こりゃだめだと、今度は相対的に読みやすいと思っていた「職業としての政治」を手に取ったがやっぱりだめ。頭がそういうモードにならない。むかしはもう少し読めたのに、と爺臭いことを言いながら妥協策として手に取ったのが本書「マックス・ヴェーバー入門」。よかった。なんとか読みきることができた。わたしの頭脳も完全には死んでいない。
3 意図せざる結果
 本書を読んでもっとも印象に残ったのは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を通したメッセージとなっている歴史の不連続性についてだ。これはヴェーバー流の歴史観の表明でもある。
 プロ倫の論旨は単純化すると、キリスト教プロテスタントカルヴァン派の中から資本主義を支える精神が育まれてきたということである。この論旨の立証にヴェーバーは心血を注ぎ、膨大な情報と緻密な論理構成で描き切る。
 カルヴァン派は予定説を採用しており、ある人間は救いに予定され、他の人間は堕落に予定されているとする。しかしここで問題なのは、信者には神の意思が分からず、自分が救われているかどうか知る手段がないことである。この不安の中で信者は次のような解釈と行動で救われようとする。まず第一は、自分が選ばれていると信じること、第二に、その不安を取り除くために禁欲的な生活で仕事に打ち込むことである。そしてこの不安から労働への傾斜が、資本主義経済を支え資本主義の発展に貢献したヴェーバーは主張する。「純粋に宗教的な特徴を帯びた言説が、説教者たちの意図を超えた形で、経済的な行為の領域に影響を及ぼすという飛躍」(64p)と整理されているが、まさにここがプロ倫の真骨頂であり、ここから導き出される考え方が「意図せざる結果」「予期せざる結果」である。宗教と資本主義経済とは一見、水と油のように違うものに映るが、真面目な宗教的な実践が、「意図せざる結果」として、資本主義経済の駆動力となっていたという不思議。この歴史の不連続性こそ、ヴェーバーがプロ倫で主張したかったことなのである。
 これまでの歴史観は、ヘーゲルからマルクスにいたる弁証法の観点に立つものが主流で、「大きな流れからすれば、近代の一定方向的な進化・発展の過程という脈絡を共有していた」(55p)。世界は、封建社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会へと「発展」していくんだ、という安易な段階発展論であり、この歴史観は単線的で一方向的だ。しかし世界って社会って本当にそんなに単純に解釈できるのだろうか、というのがわたしの昔からの疑問だった。
 しかしこれまで見てきたように、ヴェーバーはプロ倫でまったく違う歴史観を提示した。「意図せざる結果」「予期せざる結果」とは、人間の歴史は「本源的に避けることのできない不確実性が伴っているということなのであり、その意味で、運命性を中心においた歴史観の表明」(79P)なのである。歴史とは単線的で一方向的ではなく、複線的・曲線的で多方向的なものに見えることがあるという主張である。
 良かれと思ってやったことが、「意図せざる結果」でトンデモナイ方向で波及してしまうことも社会では多い。たとえば戦後、封建的な地主制を解放するために作られた農地法は小作農保護のため農地の転用などを厳しく規制したが、環境問題が大きな社会問題になっている現代では農地法は自然再生などの取り組みを阻む大きな要因となっている。これも「意図せざる結果」の一例であろう。

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(私の本書の評価★★★★☆)
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