わたしたちが生きていくということ(経済学におけるトレードオフ)

1 自然に詳しいSさんのこと
 わたしの友人のSさんは地域の自然ガイドをやっており、地域の植物・動物について異常に詳しい。しょっちゅう地域を歩いているので、木本・草本や野鳥の判別はもとより、「今、どこどこで何が咲いているよ」とかのプチ自然情報も豊富だ。一緒に自然を歩いていると、Sさんは実に楽しそうにしている。きっと自然が心から好きなのだろう。植物判別がどちらかと言えば苦手なわたしは学ぶことばかりになる。
 そんなSさんと先日話をしていて、ひょんなことから東南アジアの国々の話になった。わたしは東南アジアの歴史展開の過程を調べていたことがあったので、その知識を使って、ベトナムラオスカンボジア共産主義運動の展開について詳しく話をした。するとSさんは「ぽかーん」とした顔になり、目をパチクリさせた。聞くと、東南アジアの国々の歴史についてはほとんど知らないらしい。社会主義共産主義にいたってはほとんど予備知識がないといってもいい。わたしは、ハタと思った。「この状況こそ、経済学でいうトレードオフだ!」
2 わたしたちが生きていくということ(経済学におけるトレードオフ
 トレードオフ(trade-off)とは、経済学用語で、ふたつのうち、どちらかを選択して他を犠牲にしなければならない状態のことを指す。たとえばAさんが100円を持っていて、100円ジュースか100円アイスのどっちを買うか迷ったが、結局、100円ジュースを買ったとする。この場合、Aさんはジュースを選択したことにより、ジュースを味わう効用を得ることはできたが、一方ではアイスを味わう効用を犠牲にしたことになる。この選択と犠牲の関係がトレードオフなのである。
 考えてみると、トレードオフは上記のような経済行為だけではなく、われわれの日常生活の多くに当てはまるだろう。たとえば、今回のSさんとわたしの例。Sさんは自然が好きで自然の勉強ばかりしてきたから自然に関しては強い。ただ一方で、その分おろそかになった社会科学には弱い。一方わたしは、社会科学に興味がありその探求に時間を割いてきたので、自然科学には弱い。わたしたちは日々、自分にとっての合理性をもとに常に選択をして、その一方で何かを犠牲にしながら生きている。この選択と犠牲の連続によって、わたしはわたし自身の個性を作り上げ、SさんはSさんの個性を作り上げている。すなわち わたしたちは、トレードオフのなかで生きているということなのだろう。わたしたちは選択の中で得た物には敏感だが、その選択の中で失っている物には鈍感になっているのかもしれない。
3 日常のなかで社会理論の捉えなおし
 今回、ハタと思いついたSさんとトレードオフのこともそうなのだが、最近、かつて学生時代に学んだアカデミズムの理論や概念が、いまの仕事と生活のなかで、キラッと理解できる瞬間がたまにある。生活事例と社会理論がひょいっと結びつくのである。
 学生時代を思い出す。当時は、理解できようができまいが関係なく、社会理論や概念をとにかく詰め込んだ。大学院に進学するにあたって自然科学から社会科学の講座に移ったわたしは、周囲の人たちに負けないように、社会科学の文献を読みあさった。社会理論、社会調査、経済学、文化人類学と、大して理解がすすまなくても、とにかく読みまくった。マックス・ウェーバーの理念型・価値自由、マートンの中範囲の理論や準拠集団、ミルヘスの寡頭制の鉄則、ニーチェの弱者のルサンチマンと超人概念、鶴見和子らの内発的発展論、鳥越皓之らの生活環境主義レヴィ・ストロースの女性の交換理論、梅棹忠夫の文明の生態史観などはその頃に知った。
 当時、決して理解していたわけではなかった。むしろ、全般的に理解度はかなり低く、自分の中でうまく消化できないことがほとんどだった。社会科学を学んだ人なら分かると思うが、社会理論関係の書籍の多くは難解で、一度読んだだけでは理解できない。数行の文の意味を、何時間も何日もかかって考え、それでも分からないこともザラにあった。当時は、「こんなに時間をかけたのに、何にもなっていないのではないか!」と嘆き焦ることが多かった。
 いまこのアカデミズムとは関係のない生活の中で、当時の難しかった理論や概念がわたしの生活事例とひょいっと結びつく瞬間がある。雷が走ったかのように、突然ひらめき、理解できるのである。当時、あれほど努力しても理解できなかったことが、今では簡単なことのように理解できることがある。不思議なもんだ。人生にやって無駄はことはないのかもなぁ。

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