手記「私はなぜ社説を盗用したか」(小林広、論座2007年7月号:184-195p)を読んで大学院生時代を思い出した

 論座の2007年7月号を流し読みしていたら、次の記述にハッとさせられた。
 その記事は、盗用で社説記事を書いて山梨県の新聞社を解雇された記者の手記だ。解雇後に医療専門家から送られたというメッセージの引用部分に、次のくだりがある。

ジャーナリストには体験がありません。体験がないことについて書くのはたいへんだと思います。医療のような複雑なことについて、的を外さずに、社会に悪い影響を与えずに、報道するということは、至難の業です。医療という一分野についてだけでも大変なのに、多くの分野について、社説で主張するということは、そもそも、無理があります。本来、主張が生じていないのに、主張を作り出さないといけない。しかも、その主張が一定の枠に入ることが要求される。甘い甘いメディアの思考枠です(193-194p)

 ここで指摘されている体験がないのに書く辛さ、主張がないのに書く辛さについては、わたしも大学院生時代に嫌と言うほど味わった。もちろんわたしが地獄を味わったのは4年弱程度のなので、長年記者として働いてきたこの手記の方には遠く及ばないのだが、記事を読んでいて、自分のあの時代の思い出が甦ってきて急に苦しくなった。
 「ジャーナリストには体験がありません」「本来、主張が生じていないのに、主張を作り出さないといけない」 この苦しみを、フィールド社会学を先行する研究者の卵は味わう。もちろん研究活動は専門分野が決まっているので、新聞記者のように多分野のことを同時に扱うことは少ないが、一方で研究論文として成果を現すので、事実性や論理性などが厳しく問われプレッシャーが大きい。それでも時間をたっぷりとかければそこそこのモノが仕上がるかもしれないが、今の学生の不幸は、成功するためには業績を量産することが求められていることだ。時間に追われながら研究に取り組んでいると、自身の体験のなさからくるリアリティの欠如、問題意識の欠如が決定的な問題となってくる。
 フィールド社会学の研究ステップを3段階に分けるとすれば、①調査設計、②現地調査、③集計・分析に分けられる。実は②の聞き取りなどの現地調査は、魅力的な人に出会えたり、調査地で美味しいものを食べたりと、意外と楽しく過ごせることが多い。しかし問題は、調査にかかるまでの①調査設計の段階、そして調査結果を集計し、分析し、文章としてまとめる③の段階だ。この2つの段階でリアリティの欠如、問題意識の欠如の問題が急に頭をもたげてくる。
 そもそも①調査設計の段階で、対象に対するリアリティがないと調査内容を決めることすらできない。何をやればいいのかイメージが沸かない。そう悩んでいると、いつまでたっても調査に出られない。
 ③集計・分析段階では、問題意識がなかったり、またはぶれたりすると研究論文に仕上げることができなくなる。多くの大学院生が陥る罠は、問題意識の欠如やぶれによって、文章が社会事象を羅列するだけの報告記事になってしまい、分析・評価ができないというものだ。分析・評価のない文章は論文ではなく報告書だ。オリジナリティを創りだす研究の原点から見ればほど遠い。
 何を隠そう、わたしはこの2つの欠如の罠にはまってしまった張本人である。あがき、苦しみ、身動きがとれなくなり、結局、大学院を去った。もうこれ以上、研究生活を続けることはできなかった。当時の担当教官にわたしは、口頭報告に併せて次のようなメールを送り、自分の気持ちを伝えた。

…(これからの)自分の研究を考えると、この…分野で、取り立てて自分がやりたいテーマがないことに気づきました。自分が取り組みたいテーマがない理由は、私自身にこの分野に関する強い問題意識がないことが大きいと思います。もっと言ってしまえば、私の、…現場体験のなさ、リアリティの希薄さに行き着きます。リアリティがないのに、現場の人にインタビューして、分かったようなフリして文章を書く作業が心底いやになりました。

 偶然だが、大学院生の就職難に関するレポートを2007年6月号の論座に見つけてた(濱中淳子「大学院は出たけれど――夢を追い続ける「高学歴就職難民」2万人」)。記事には、1990年代以降の大学院拡大政策により日本の大学院生の数はほぼ倍増したが、その多くが就職難に喘いでいるという内容が書かれていた。2006年の博士課程を修了した学生のデータで、農学部の5割が就職が決まっておらず、人文・社会系ではその割合は6〜7割に達する。
 特に博士課程まで残る人は優秀な人が本当に多い。そういう人が就職も決まらず、もがき苦しんでいる状況は、なんたる社会的損失か! 一方、社会には何の役にも立たないサラリーマンが多くいて、安定した給料をもらっている。このアンバランス、どうにかならないものだろうか?

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