津本陽「異形の将軍 上・下―田中角栄の生涯」

異形の将軍 上―田中角栄の生涯
4344002563津本 陽

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4344002571異形の将軍 下―田中角栄の生涯
津本 陽

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 田中角栄という政治家はずっと気になっていた。
 辛口の政治家や新聞記者らの間でも、角栄の人柄と仕事を評価する人はいまだに多い。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれ、なんといっても日中国交正常化交渉を成功させたことは有名。数々の議員立法を成立させ、その中には昨今の道路公団民営化で槍玉に挙げられていた道路特定財源に関する法律も角栄が作った。
 また国・地方合わせて700兆円という、現在の赤字財政国家体制を作ったルーツは角栄である。日本列島改造という目標のもと、彼が地方ばら撒き政治を本格的にはじめたのだ。この流れは、田中派から経世会、今の橋本派へと30年以上引き継がれている。
 良い面も悪い面も含めて、現代日本に多大な影響を残した角栄の人生とはいかなるものだったのか。
 津本陽は、本書において、角栄の生い立ちから死までの軌跡を丹念にたどりながらそれを明らかにしようとしている。本書は、角栄の死から8年後の2001年に夕刊フジに連載したものである。既存の文献に頼り引用がやたらと多いので、確かに臨場感には欠ける。小説的な娯楽性をもとめて本書を手に取った方は、もしかしたらがっかりするかもしれない。しかし本書をよく読んでみると、角栄の生い立ちから死までの過程を淡々とつづりながらも、角栄の人柄をしのばせるエピソードを適所に配置しており、なかなか綿密に計算された構成になっている。
1. 田中角栄の人間味
 本書を読み終えてまず感じることは、人を魅きつけてやまない、角栄の人間味である。たとえばこんなエピソードがある。
 通産大臣として望んだ日米会談時のパーティで、角栄は、派閥の1,2年生議員ら若手をアメリカの閣僚たちに引き合わせ、握手をさせ、写真を撮らせた。実にこまかく面倒を見た。ライバルの福田赳夫外相はこれをやらず、自分だけがアメリカ閣僚とカメラに納まっている。これを見た同行記者は、「(角栄の)こんなまねは、苦労人でなければできない。だからみんなが、この人のためにひと肌脱ごうという気に、本気でなるんだな」と感心する(下巻,138-139p)。
 また出会った人の名前と顔をすぐ覚える。本書では、視察で出会った官僚の名前をすぐ覚えてしまったエピソードが紹介されている。そして1年後に官庁でばったり出くわし、「井上君!」と角栄は一声かける。しばらくしてその官僚が海外出張する際には、角栄から破格な金額の餞別が届けられた(上巻,239-240p)。名前を覚え続け、「オレはあたなを忘れてないんだよ」というメッセージを与え、そして餞別という気配りを見せる。ここまでされて彼に親近感を覚えない人も少ないだろう。
 また陳情団に対しては、1組当たり1分から3分で即断即決。時にはナマ返事のこともあるが、必ず返事を出すことにしているという。その心は、相手の希望通りでなくても「聞いてはくれたんだ」と思ってくれることが大事。徹底した気配りである。
 人心掌握の仕方は3通りある。一つ目は能力の高さを示すこと。「あの人は仕事ができる」とか「あの人の意見はずば抜けて説得力がある」など、当人の能力の高さを周囲に認めさせる。そうすれば次第に人が集まり、ついてくるようになるだろう。二つ目は、恐怖心を植えつけること。「あの人に逆らうと怖い」というような恐怖心を周囲に植え付ける。そうすれば、しぶしぶかもしれないが周囲はついてくる*1。3つ目は、人情。周囲に気配りをし、世話をして「あの人は良い人だ」「あの人には世話になったから」と思ってもらう。浪花節で人はついてくる。
 角栄は、一つ目の能力の高さを周囲に認めさせ、「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた。二つ目の恐怖心を植えつけることも、本書ではあまり触れていないが、あったであろう。ドロドロした現実社会を相手にする政治家だからニコニコばかりではいられない。そして三つ目の人情。徹底した気配りに、これにカネの威力をからませながら、人心を掌握していった。自民党田中派は、最盛期では約130人の国会議員を要する巨大派閥だった。
 蛇足だが、私はここで自分の頭の整理の中で、人心掌握の仕方を「能力の高さ」「恐怖」「人情」の3つに分けた。最近ひょんなことから、これとほとんど同じ分け方をギリシャの哲学者プラトンがしていたことを知り、びっくりした。プラトンは説得の種類として3つに分け、①理屈による説得、②威圧による説得、③贈り物による説得と整理した(佐藤優「獄中記」172p)。まったく知らなかったが、わたしなぞが今の時代でいろいろ懸命に考えても、そんなものはとっくに昔考えられていたなぁ、とつくづく思った。

2. 現場処理の天才・田中角栄
 角栄は、徹底的なリアリストであり、現場処理の天才であった。本書にも次のような言葉が引用されている。
「…(角栄は)“かくあるべき”にとらわれない。“こうある。これをどうするか”と考える現場処理の天才である」(上巻,244p)
 小学校卒の学歴で叩き上げの角栄は、理念、原則にとらわれない。良い面も悪い面も含めて、ここが同時代のライバルである福田赳夫中曽根康弘とは決定的に違った。東京大学卒でインテリの二人は、理念、原則などの抽象論に強い。しかし、現場処理の能力では、角栄は誰にも負けなかった。
 角栄は目の前の課題を、「コンピューター付きブルドーザー」よろしく、持ち前の行動力と正確さで次々と解決していった。なかでも道路特定財源に関する法律や河川法改正などを、議員立法で成立させてしまう手腕は驚嘆に値する。行政の現場で働いた経験のある方は分かると思うが、法律というのは独特の表現法・フォーマットより成っており、専門家以外には書くことはもとより、正確に読むことさえも難しい。たとえば現在の河川法の1条は次のような文章である。

第1条 この法律は、河川について、洪水、高潮等による災害の発生が防止され、河川が適正に利用され、流水の正常な機能が維持され、及び河川環境の整備と保全がされるようにこれを総合的に管理することにより、国土の保全と開発に寄与し、もつて公共の安全を保持し、かつ、公共の福祉を増進することを目的とする。

 こんな長ったらしく、意味が分かりにくい文章をどれだけの人が書けるだろうか。
 また法案作成は文章の問題だけではなく、各条項の整合性や他法との整合性など、考慮すべきことが膨大にあるのでこれまた頭が痛い。日本において議員立法の数が少ないのも分かるだろう。この困難の中で角栄は多数の議員立法を成立させた実績をもつ。彼が「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれるとき、「コンピューター」という語が必ずつく意味も、角栄のこのような才能ゆえだろう。政治家による官僚コントロールのシンボル的存在に、角栄が祭り上げられているのも当然といえよう。

3. 抽象論に弱い田中角栄
 しかし一方で角栄は、マクロに、長期的に政策を考えるなどということは苦手だった。本書には次のような言葉がある。
「…マクロにものを見るとか、抽象的に考えるとか分析するといったことは、まるでできないし、興味を示さない。だから財政投融資政策とか、経済何ヵ年計画とかには全然興味がない。住宅建設計画なら、どこにいつどれだけ建てるというレベルになって、猛烈な興味を示す。…具体的に具体的にとしか頭が働かない人なんですね。」(下巻,115p)
 現場処理の天才の角栄でも、抽象論には弱かった。これには小学校卒で、青年期の多感な時期に高等教育を受けることができなかったことが影響しているのではないか。抽象論に弱いか強いかは、頭が良い悪いに関係なく、訓練の問題だと思う。多感な青年期に、高校や大学で抽象論の訓練を受けた者は、抽象論の基本思考が理解できるし、以後興味も持ち続けられる。しかしこの訓練を受けなければ、ハードルが高く、よって興味もわかない。角栄はあくまで教養主義ではなく、経験主義だったのだ。

4. ロッキード事件と宗男騒動
 本書の後半部では、ロッキード事件の検察捜査のことが記述されている。
 取調べにおいて、とにかく検察側が思い描くようなストーリーで調書を作ろうとする。これを了承しない場合は、何度も呼び出し、しつこくしつこく尋問する。この記述を読んでわたしは最近読んだ「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」という本を思い出した。この本は、ムネオ騒動に巻き込まれ逮捕された、元外務省国際情報局主任分析官・佐藤優氏の本だが、この取調べがロッキード事件の取調べととても似ているのである。証拠が十分に出てこなくても、何が何でも角栄や宗男の犯罪として立証してしまおうというのだ。佐藤の著書では、このような捜査を「国策捜査」と呼んでいる。佐藤はこう続ける。
「…現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があ」った(「国家の罠」292-293p)

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて
4104752010佐藤 優

新潮社 2005-03-26
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 佐藤の主張を別の言い方でいえば、経世会的な大きな政府から小泉的な小さな政府への転換点で、宗男騒動は起こった。ここでポイントなのは、宗男氏が、時代の流れに抗う反骨者だったことである。宗男氏は旧体制のシンボルとなってしまい、撃ち落された。国家意思がGoサインを出した以上、もはや実際に鈴木宗男氏が犯罪を行ったのかは関係ない。でっち上げでも構わない。それは国策捜査だからだ。
 この佐藤の主張にしたがって、ロッキード事件の内幕を推察すると、田中角栄は冷戦構造という時代の流れに抗ってしまったことが原因で、ロッキード事件に巻き込まれてしまった。日中国交正常化を成し遂げ、東側に急接近した田中路線に強い警戒感を覚えたアメリカが、なかば自作自演でロッキード事件を創作した。そして当時の三木首相もこの意向に従い、ロッキード事件国策捜査にした。そう、すべては角栄が時代の流れに抗ってしまったため…。

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(私の本書の評価★★★☆☆)

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*1:ただし世界史の恐怖政治を見ると、このような恐怖心のみに頼った政治体制は長続きしない場合が多い。