「21世紀の倫理を考える⑤」(質疑応答)

1.「自立した個」をめぐって(確かなる「私」などは存在するのか)

質問
「自分で考えて、自己のうちに規範を見出すと言うが、そんなにしっかりとした自分(私)は存在するのか。自分で一生懸命考えた答えだと言っても、それは知らず知らずのうちに周囲に、他者に影響された受け売りの意見であることが多い。そんな現状なのに「自立した個」なんてあり得るのか」
答え
 非常に鋭い質問だと思った。「個」や「私」について、少なからず考えを深めたことがある人でないと出せない質問である。なるほど、確かにわれわれの意見は、テレビや雑誌や他者の意見に、時には意識的に、時には無意識的に影響を受けている場合が多い。
 しかしながら、わたしの言う「自立した個」とは、他者に影響された受け売りの意見を言う行為とは一線を画している。つまりこういうことである。わたしが「自立した個」という言葉を使い定義づけるときには、「ものごとを自分の感性に照らし合わせ」という部分に大きく比重を置いている。だれしも「なんかおかしい」「なんか違う」とか、「こんな感じがいい」みたいな感覚を持ったことはあるだろう。それは論理ではなく、感覚的なものだ。しかしわたしは、その感覚的な部分に「自分」や「私」が潜んでいると考えている。
 わたしは、まずは、自分のもっている、これらの感覚を掘り下げて考えることが大切と考える。この自分の感覚を分析し、自分がどんな価値を持っているかを自覚することである。自分はどんな場合に幸せと思うのか、他者はどうあってほしいのか、そんな自分の発想の根っこ(価値観)を明確化することが重要だ。もちろん、そこで洗い出される価値観は一つではないだろう。矛盾する価値観を同時に持っていたりする。それら混沌とした中で、どうやってそれら価値観をつなぎ合わせ、バランスをとり、総体的な自分の価値体系を作れるかがポイントと考える。この価値体系こそが、「自分」や「私」に通じていると思う。
 自分が拠って立つ価値体系を明確化できたら、そのあとの作業はさほど難しいものではない。自分の価値からみて、社会の対象がどう映るか見て、論理立てればいいだけ。これがわたしの言う「ものごとを自分の感性に照らし合わせ、自分の頭で考えて」ということである。
 そういうステップを踏んで考えた答えが、他者の意見と同じになることがあっても構わない。それは、たまたまその人と価値体系が同じだっただけ、と解釈すればいい。それは決して「他者に影響された受け売りの意見」ではない。

2.日本人の心を軸とした社会論を!

質問
「日本における民主主義論を展開しているのに、日本人の心(仏教を想定していると思われる)や伝統についての言及がないのはおかしい。民主主義や倫理などの難しい言葉じゃなくて、もっとやさしい言葉で社会を語れないのか。民主主義なんてしょせんは、西欧のシステムを押し付けられているだけのもので、大したものではない。日本の伝統などに基づいた社会論を展開してほしい」
答え
 日本の民主主義を論じているのに、日本人の心や伝統に言及がないという指摘は、ある部分ではその通りなので今後の課題としたい。わたしは日本の歴史はいくぶんは勉強しているが、仏教などの思想史には弱いので、今回の発表ではそれらについて言及ができなかった。興味がないわけではないので、今後勉強したい。
 ただこの質問者の発言には、疑問に思うところも多い。まず第一に、民主主義や倫理などの難しい言葉を使うなという趣旨を言われているが、これらの単語のどこが難しいのだろうか。「民主主義」や「倫理」という単語は、中学生の教科書にも載っている基礎中の基礎の言葉である。質問者は年配の方だったが、この基礎用語を「難しい」と言ってしまうのだから、何かの事情があって中学校教育を受けることができなかったのだろうか。それとも教育は受けたけど記憶に残らなかったのだろうか。
 また第二に、この質問者は、システムについての認識が浅すぎることが気になった。「もっとやさしい言葉で社会を語れ」と言い、その例として「やさしさ」と述べておられたが、この質問者は、現代日本の社会システムが民主主義制度を軸として動いていることをご存知でないらしい。やさしさがあれば、どんな社会システムでも幸せな社会が作ることができるなんてありえない。日本人の「心」の問題を強調したい気持ちは分かるが、だからと言って社会システムの議論を軽視してしまうことは、発想がナイーブ過ぎるし、権力者の側から見れば非常に扱いやすい人物だろう。制度をどんなに改悪しても、「やさしさ」などの抽象的な言葉に酔って、文句も言わず従う民なのだから。
 第三に、質問者が、さかんに「日本人の心」「日本人の伝統」という言葉を繰り返すのが気になった。そもそも安易に「日本人の伝統」という人を私は信用していない。歴史学社会学の知見からも分かるように、「日本人伝統」などというものは、主観のなかにしか存在しない。そもそも日本人なる概念が出現したのは明治時代以降のことであり、大した歴史があるわけでもない。それ以前の概念は、どこどこの地域の、どこどこの村の、という程度の範囲だった。それを明治政府が近代化を推し進める手段として、天皇を祭り上げ、日本という国家概念を、日本人像を強調したに過ぎない。日本人という血の同一性が存在しないことも、遺伝学的な研究で明らかにされているという。だから「東北のどこどこの村の心・伝統」とかならばまだ分かるが、「日本人の心」とか「日本人の伝統」とか言われると、「いったい何のことを指しているのですか?」と突っ込みたくなる。そういう方に限って、「日本人の心とは武士道だ」とか「日本人の心とは仏教だ」とか、個別的事実を全体事実に安易に拡大する傾向がある。曖昧模糊とした「日本人の心」とか「日本人の伝統」とかにすがるべきではない。心とか伝統にすがりたいのであれば、すがる対象をもっと具体化して、定義づける必要があるだろう。

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