人事異動の季節におもう

 3月は人事の季節だ。
 一定規模以上の組織ならだいたい人事異動があるから、そこに勤めるサラリーマン達はこの時期に矢継ぎ早に発令される人事に、それこそ一喜一憂する。行きたい部署がある人は、思い通りの部署に行けるかどうかヤキモキする。上司や部下との関係がうまくいっていない(またはうまくいっている)ケースなら、自分や上司などに異動がないかどうかヤキモキする。出世欲の強い人は自分が昇進できるかどうか心配で落ち着かなくなるし、仕事がうまくいっていない人は降格や査定が落ちないかどうかで夜も寝られなくなる。
 わたしの所属する組織でも、先日人事異動が行われた。わたしの個人的なことは明言は避けるとして、全体としてみれば組織の苦しさが分かる内容だった。とにかく人の絶対数が足りない、今いる人でも能力・モチベーション的にかなりの差がある、仕事量は減るどころが増える一方だ。こういう状況になると、必然的に「できる人」「やる人」ばかりに仕事を集めるような体制になる。今回の人事異動は、そんな幹部たちの意思がロコツに見える人事内容だった。
 こうした人事を見ていて、いつも思うことは次の二つだ。


1 圧倒的な不公平感
 一つは、圧倒的な不公平感である。
 仕事をやる人、できる人は、やればやるだけ仕事が集まり苦労する。一方で、仕事をやらない人、できない人は重要な仕事から外され、誰にでもできるようなお気楽業務担当になるか、そもそも仕事があまりないような担当に配属される。
 そういう人たちは、普段はノー天気としているが、職場に対する執着だけはすさまじい。何があっても組織にしがみつき辞めようとしない。そういう人材は、放り出されたら他に行く会社もないからそれこそもう必死だ。その抱き付きエネルギーを、少しでも普段の業務に振り向けてくれれば良いのに、と思う。
 それでも「やる人」と「やらない人」とで、待遇や給料に明確に差があればまだ良い。やらない人はどんどん降格させ、それでもダメならクビにしていく体制があるならまだ良い。しかし三種の神器(じんぎ、「年功序列」「終身雇用」「企業内労働組合」)と呼ばれる日本型経営の伝統を引継ぐ日本の組織に、そのような大胆な能力主義をおこなう意思も胆力も低い。そうなれば「やる人」「できる人」には圧倒的な不公平感ばかりが募る。
 先日の協議の時、ある幹部は「残って欲しい人は辞めて、辞めて欲しい人は決して辞めない」と嘆いていたが、このような圧倒的な不公平システムを温存している限り、そのような動きは必然である。どうしてこんな簡単なことに気づかないのか、気づいているなら是正の手を打たないのか、その精神構造が分からない。いや、ただ能力が低いだけなのかもしれない。


2 人事部署の責任問題はだれが問うのか?
 二つ目の思うことは、それは実質的に人事を動かしている人たちの責任問題のことだ。そこそこの規模の組織になれば、人事は担当部署のトップが実質的には決めているといって過言ではない。具体的には、人事課や総務課と呼ばれるセクションの部長や課長クラスだ。一見、組織のトップが決めているように見えるが、一定規模以上の組織になれば、トップはいろいろ忙しいので、大枠の方針や一部人材の引き抜き程度はするかもしれないが、細かい部分の配置・調整などは基本的には人事部署任せになる。そうであるならば、人事部署のトップ連中が組織の将来展望をどう描いていて、細部の現状をどれだけ見渡すことができていて、それぞれの人材をどう評価しているかが、人事異動の内容に絶大の影響を及ぼす。
 カネがない、人がいないという理由で、部署の人員を削減する。こいつはダメだからと、どうでもいい部署に配置換えする。人事部署は「組織の現状が厳しいから仕方がない」と言い訳をするが、そもそもこれだけ人が少なくなることなどは、半年前から、1年前から分かっていたことではないか。事前に分かっているのだから、新規採用をするなどの手は打てたはずである。「こいつはダメだから」というが、採用試験の担当はお前たち人事部署じゃないか。お前たちの人を見る眼がまるでないから、こういうダメな人材を入れてしまい居座られるのではないか。入ってからの教育もそうだ。新人教育などは各部署に丸投げで、人事部署がしっかりとした人材教育に取り組まないからこうなってしまうのではないか。
 そういうダメな人事部署の責任は一体だれが問うのだろうか? もちろん組織のトップが問うべきなのだろうが、トップが問わない場合、誰が責任追及をするのだろうか。誰もしないのではないか。従業員は基本的に人事報復が怖いので、だれも表立って人事部署批判はしない。
 伝統的な社会学の定義によると、権力とは「他者をその意図に反して、自己の目的のために従わせることができること」(社会学事典、1994年:271p)という意味である。そうであるならば、人事異動は、会社組織の中でも最大の権力手段と言っても過言ではない。その権限を持つ者にはおのずと力がついていく。だからこそ、組織のトップには、総務畑や人事畑が多いのだ。


3 密室で強権的な人事について
 密室でごく限られた特定の人だけで人事を決めているという批判も根強い。
 わたしはマキャベリズムを少しかじったので、密室・強権的なやり方が必ずしも悪いとは思っていない。話し合いで職員の合意を十分にとってから人事異動をおこなうのがもちろん美しいが、ドラスティックな改革をしなければならない時などはトップダウンで密室で行われるケースがあっても仕方がないと思う。
 しかし改革意識もなく、明確なビジョンもなく、かつ決定する人たちに人を見る眼も全体をコントロールする能力もない中で、密室・強権的に行われる人事ほど悲惨・無意味なものはない。ただ小手先で将棋の駒を動かしているようなものだ。それも将棋に勝つためではない、駒を動かすことが目的なのだ。手段がいつのまにか目的になってしまったのだ。
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