産経新聞「毛沢東秘録」

毛沢東秘録〈上〉
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star文革を巡る想像を絶する権力闘争ドラマ
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産経新聞毛沢東秘録」取材班

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 文化大革命について、特に中国共産党の権力中枢部の動きについて、さまざまな角度から浮かび上がらせた歴史ドキュメント。同じ文革を扱った書物でも、山崎豊子大地の子」は陸一心という一労働者から見た文革の姿が小説的に描いたものであり、また李志綏「毛沢東の私生活」は毛沢東の主治医だった著者が毛主席だけにスポットを当てて書いた側面が強い内容のため、文革の全体像を知りたい、という読者を必ずしも満足できる内容ではなかった。しかしその点本書は、共産党権力の中枢部にスポットを当てているものの、非常に多角的にバランスの取れたものとなっており、文化大革命を知りたい、という読者のための入門テキストとして最良であろう。菊池寛賞受賞。

1 文化大革命の3側面―毛沢東、4人組、大衆
 それにしても文革のくだらなさには心底呆れる。
 中国の文化大革命は、名前こそおどろおどろしいが、内容を見れば毛沢東を軸としたただの権力闘争なのに、幹部、国民はバカみたいに踊らされ、破滅への道をひたすすんだ。毛沢東は政策の失敗により、実権を劉少奇訒小平らに握られてしまった。文革は、毛沢東の巻き返し政治運動だったのだ。毛は、共産党中央部にブルジョア思想がはびこっていると焚きつけ、反主流派、国民を煽った。国民は餓死が出るほどの貧困に対する不満を、一気にこの政治運動にぶつけた。文革の波はたちまち中国全土に飛び火した。そして国が内乱状態になっても、毛沢東は「乱れるにまかせればよいではないか」(上巻:130p)と日和見し、そして最後には「司令部を砲撃せよ―私の大字報」という文章を発表し、ターゲットを劉少奇訒小平らの実権派に絞り攻撃を仕掛けた。毛沢東は、自分の権力を守りたいがために全国民を巻き込んだ闘争を仕掛けたのである。その犠牲者は2000万人を超えるという。なんという破廉恥漢だろう。
 この愚行にタダ乗りしたのが、江青王洪文ら上海4人組と林彪だ。自分たちの政敵に対して、「ブルジョア的」「修正主義的」とレッテルを貼り、激しく攻撃をしかけ、追い落としていった。林彪は政治局拡大会議の演説で、政敵の名前を挙げ、「彼らは陰謀をたくらんでおり、たったいまも人殺しを考えている」と決めつけた(上巻:166p)。なんというむちゃくちゃなレッテル貼りだろう。毛沢東の妻・江青の言動を見ていると、自己顕示欲が強いけど能力が乏しいので、そのギャップを威張り散らすことでカモフラージュしている、ただのオバさん程度にしか見えない。この程度の人物が一時期、中国共産党の中枢部にいたことも近代中国にとっては大きな不幸だ。毛沢東は、夫婦してロクな人間ではない。
 中国大衆も愚かを極めている。特に紅衛兵の発言と行動はこっけいだ。たとえば、ある紅衛兵の一団は「赤は革命の象徴なのに赤信号で停止するのはおかしい」と言い出し、事故を多発させたという(上巻:181p)。またしまいには、ジーンズや長い髪、パーマもブルジョア的と言い出し、革命の前では人権さえない状態だった。資本主義を越える社会であるはずの社会主義国家において、このような封建時代にもなかったかもしれない人権蹂躙が平気で行われていたのだ。驚くべきことは、これがほんの30年数年前の出来事ということだ。

2 悲劇の主人公・劉少奇
 文革の犠牲者のひとり・劉少奇のことを思うと、胸が締め付けられる。有能で、文革前には共産党№2の存在であったが、その有能ぶりが毛沢東の逆恨みにあい、激しい攻撃をしかけられ、非業の死をとげた。
 毛沢東が仕掛けた文化大革命で、反革命者やブルジョア的人物とレッテルを貼られた人たちに対する弾圧は、たちまち中国全土に広がり、共産党幹部、知識人らが吊るし上げに合い、リンチされ殺された。しかし攻撃のターゲットの総本山は劉少奇だった。劉少奇は当時、国家主席の地位にあったが、次第に実権を失い、70歳を過ぎた高齢にも関わらず吊るし上げに合い、そして虫けらのように捨てられていった。

文革急進派の糾弾集会がまたも開かれ、劉少奇は監禁されていた執務室から引きずり出された。…猛暑のなかで婦人の王光美とともに“批判台”に立たされた劉少奇は二時間にわたって両手を後ろにまっすぐ伸ばして腰をかがめ、頭を下げるいわゆる「ジェット式縛り上げ」にされ、拷問を受けながら必死の抵抗を試みた。
「君たちは私個人にどういう態度を取るかは重要なことではない。しかし、私は中華人民共和国主席の尊厳を守らねばならない。君たちの行動は自国を侮辱するものだ」
「私も一人の公民だ。なぜ私に話をさせないのだ。憲法は全公民に人格権が侵されないと保障しているではないか。憲法を破壊するものは厳しい制裁を受けるべきだ」
 だが「打倒劉少奇」を叫んで殺気立つ造反派に殴られて劉少奇の顔は腫れ上がり、「毛沢東語録」で小突かれ続けた。靴も脱げたままで靴下姿の劉少奇は、もはや国家主席としての威厳も名誉も失っていた。(上巻:243〜244p)

 そして劉少奇毛沢東に手紙を送ったが、何の音沙汰もなかったという。劉少奇は監禁され、殴られ、投薬制限も受け、次第に弱っていった。次の記述は、追い詰められた人間の、痛々しい姿を映し出している。

こうして肉体的にも、精神的にも極限状態にあった劉少奇は、しばしばこぶしを固く握りしめたり、十本の指を大きく開いて何かをつかもうとしたりした。いったん何かをつかむと、決して離そうとはしなかった」(上巻:246〜247p)

3 中国版スターリン批判
 生前の毛沢東が最も恐れていたのが、ソ連フルシチョフが行った「スターリン批判」だった。つまり自身の死後に、自分の実績や人間性を否定されるのを毛沢東はもっとも恐れていたのである。しかし歴史は繰り返した。毛沢東の死後、権力闘争のなかで実権を握った訒小平は、1981年「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」を発表し、毛沢東批判に言及した。

毛沢東同志はしだいにおごりたかぶり、実際から離れ、大衆から浮き上がり、日増しに主観主義と独断専行の作風をつのらせ、党中央の上に身を置くようになった。…彼は10年にわたる『文化大革命』で重大な誤りをなしたとはいえ、その全生涯からみると、中国革命に対する功績は誤りをはるかにしのいでいる。彼にあっては、功績が第一義的で、誤りは第二儀的である。」(下巻:330〜331p)

 これは語調こそ弱いものの、内容としてみれば、訒小平による中国版スターリン批判と言えるであろう。「おごりたかぶり」「独断専行」など強い言葉で毛を批判している。この決議は、訒小平体制のもとで中国が毛体制と政策的に決別したことを示している。その後、訒小平は改革開放路線に大きく政策をシフトし、今の経済大国の中国の基盤をつくっていった。訒小平は以前、「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という白猫黒猫論を展開したが、この論には、結果がすべてという訒独特の合理主義が垣間見れ、改革開放路線と親和性がある。
 しかしもちろん訒小平は、毛沢東を全否定はしなかった。「功7過ち3」と彼を一方で大きく持ち上げた。それは訒小平がそう思っているからというより、 共産党政権の正当性を脅かさないための苦肉の策だったのであろう。

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(私の本書の評価★★★★★)
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