わたしの幸せ論

 世は渇望の時代である。
 現代において人々は、欲望をむき出しにし、求め、策略を練り、争いながら生きている。あたかも欲望を満たすことが人生の目的であるかのように。前ライブドア社長の堀江貴文氏の「金で買えないものはない」という発言は、その発言が妥当かどうかは別として、いまの時代精神をうまく捉えている。別言すれば、現代人にとっては、欲望を満たすこと=近代的な幸せの形、になっているのかもしれない。
 マクロな視点でみれば、その個々人の近代的な幸せの形が、この資本主義経済ともっとも合致しているともいえる。だから現代において人々は、資本主義システムをもっとも良いシステム、いや正確にいえばこれまでのシステムの中でもっともマシなシステム、として受け入れているのだ。共産主義も、独裁国家も、人々の欲望を著しく押さえつけるという点で、現代において適合的なシステムではない。
 しかしながら、人々が欲望のままに生きたら、全体の秩序が保てないのでは? という突っ込みは小学生でもできる。社会学的にいえば、リベラリズムアノミーを招くと批判されている。だが一方では、アダム・スミスの「神の見えざる手」というキーワードで有名のように、個々が欲望のままに活動すると自然と全体が良くなってしまう、いわゆる神の調整がはたらくという主張もある(詳しくはアダム・スミス国富論」(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。この両陣営の論争は古くから行われてきた。
 ここでそれらの論争について整理するつもりはない。今日はミクロな視点で、自分自身にとって幸せとは何か、を簡単に考えてみたい。思想も抽象論ばかりではなく、時々自分の身にひきつけて問題を考えると理解がすすむことがある。今日はその等身大の自分のこととして「幸せ論」を考えてみたい。たとえばわたしの幸せの形を挙げると、次のようになる。
①わたしが健康で、大事にしたい他者との関係が良好であること
②家族・親族が健康で関係が良好であること
③友人・知人が健康で関係が良好であること
 この3点はまず基本。これに付け加えると、
④自分における、いろいろな意味においての仕事が、充実し良い結果を出していること
 これはマズローの欲求階層論的にいえば、自己実現への欲求といえる。そしてさらに付け加えると、
⑤どこかの洒落た飲み屋で、美味しい酒を飲んでいる時間が持てること。
 酒の中では私はダントツにビールが好きだ。特に最近はベルギービールのフルーティーな味わいがお気に入りだ。
 その洒落た飲み屋には、わたしの好きな素晴らしい音楽がかかってなければならない。そばには心躍る美女がいなければならない。そんな空間で飲むビールは最高だろうな。かかっている曲は何でもいいが、たとえばわたしが今聞いている、ボブ・ディランの「ローランドの悲しい目の貴婦人(SAD EYED LADY OF THE LOWLANDS)」。この優しい愛の歌を聴くと、心が洗われる。ボブ・ディランの曲で酩酊気分なら「どこにも行けない(You ain’t going nowhere)」なんか流れてきたら、涙が出るほど嬉しい。涙が出るといば、むかし学生時代にみなと飲み屋で飲んでいたときに、オリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton-John)が歌う「カントリー・ロード(故郷へ帰りたい、Take Me Home Country Roads)」がかかってきて、本当に涙が出たことがある。満ち足りて幸せ過ぎて、嬉し泣きしたのである。
 要は①②③④を踏まえた上でいえば、酒と音楽と女。これがわたしの幸せ論かなぁ。
 そう考えると、わたしのは個人的な欲望だけを追求しているのではなく、近代的な幸せ論とは違うようにみえる。個人の欲望に関する点は、①④⑤あたりで、②③は他者についてのことだ。しかし学問の世界では、「利他主義という利己主義」という議論があるようなので、やはりわたしも近代人なのだろうか。