いま、南北問題を考える

 先日、途上国の貧困について話を聞く機会があり、久しぶりに世界の南北問題について考えた。論旨としては、世界の富の80%は世界の20%の富裕層が所有していること(一部の富裕層が世界の富を独占している)、アフリカなどの最貧国では慢性的な貧困で餓死者すら出ていること、日本は物質的に豊かだけど仕事に追われる日々で質的に豊かな生活ではないことが問題提起された。そして発表は、このような社会は否定したい、抜け出したいと結ばれた。このテーマは、まさに私が学んだ社会学の議論そのものだった。久しぶりに血が沸き踊った。地域に住み始めてからは、この手の議論をする機会はめっきり減ってしまっていて物足りない思いだったので、今回の話題提供には感謝したい。
 今回の話を聞いて思ったことは、昔と変らない。それは一言で言えば、南北問題も日本社会のあり方も確かにおかしいが、これを具体的に変えていくことは困難を極めるということだ。もちろん、わたしも現状は否定したい。アフリカの餓死者にも生きる権利はあるし、また日本人も質的に豊かな生活を送った方が良い。それほど贅沢をしなくていいから、これほど仕事に追われることなく、ゆとりのある生活がしたい*1。しかしその理想の実現は難しい。第一に世界の資源危機があり、第二にグローバリゼーションの進展がある。
 まず世界の資源危機は、先進国の浪費社会と地球の人口爆発が引き金を引いている。先進国は食べ物やモノに溢れ、お金さえあればどれだけでも浪費できる。私はむかし札幌の飲み屋でバイトをしていたことがあるが、毎日の残飯の量は膨大で、いつも「もったいない」と思いながら捨てさせられていた。
 そしてこれ以上に問題なのは地球の人口爆発である。今の人口は世界で65億人。今後もインドなど発展途上国を軸に人口増加は間違いない。今は、世界の人々を養えるだけの食料を生産しているというデータもあるが(見田,1996:88p)、これですら、「もしも穀物が肉食用家畜の飼料にされることない場合」という前提条件があるなど、とても現実生活に当てはめられるデータではないように見える。また地球の石油、ガスなどのエネルギー資源量は、先進国の人々の生活レベルで見ると、全地球の人々を養えるだけの量はない*2。その証左は、今の原油価格の高騰であろう。

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来
4004304652見田 宗介

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 このように考えていくと、以下の点が指摘できる。資源危機の観点から南北問題を考えた場合、単に資源配分の適正化(北に流れている資源を南に振り分ける)だけで解決できる問題ではない、ということだ。食料、エネルギーにしてもまだまだ技術革新で生産力を上げる必要がある。さらに付け加えれば、CO2削減などの環境問題対応でも技術革新は焦眉の問題となっている。そのような意味においては、南北問題解決のためにも我々は、今後もあくせくと働かなければいけない。
 第二にグローバリゼーションの進展。これは説明する必要もないだろう。世界中に跋扈するグローバリゼーション。競争至上主義であり、勝ち組と負け組とで二極分化する社会である。本来であれば競争するには機会平等が担保されなければいけないが、今の世界は、それはほとんどフォローされないまま競争ばかりが奨励されている。
 冒頭に戻ろう。今回の話題提供者の結論「このような社会は否定したい」は、理想としては設定できるが、それを現実化しようとした場合はほとんど絶望的だ。グローバル化の時代では、南北問題解決はますます難しくなっており、それでも解決しようとすれば、技術革新、資源配分の適正化など打たねばならない手は山ほどある。
<了>
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*1:わたし自身の生活を見ても、残業、休日出勤は当たり前となっているし、長期休暇も1週間取れれば良いほうだ。少し古いデータだが、日本の労働時間は2387時間で西ドイツよりも736時間長いという(暉峻,1989:111p)。日本では職業倫理が強すぎるため、生活すべてが仕事になりがちである。しかし仕事も仕事として大事だが、家族や友人と過ごす時間や、本を読んだり水泳をしたりする時間はわたしにとっては貴重な時間だ。

*2:これに関しては、先進国の人々の生活レベルを下げばエネルギー資源は十分足りるのでは、という議論は立てられるかもしれない。この点は、今後の検討課題としたい。