ドストエフスキー著、亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟1〜5」

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)亀山 郁夫

おすすめ平均
stars汲めども尽きぬ。
stars読みやすいんだが
stars読破した!!
stars天の頂に迫る。
starsこんなに面白いなんて!

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 ドストエフスキー作品の登場人物は、極端な性向の持ち主が多い。もっと言ってしまえば、精神異常をきたす寸前のような、病的な人物が多く登場する。


1 カラマーゾフの兄弟における病的な登場人物たち
 カラマーゾフ家の長男・ドミートリーは恋愛のもつれから発狂寸前になり、怪しげな行動を繰り返して、父殺しの容疑者となってしまう。次男のイワンは頭脳明晰のエリートだが、無神論からくる思想上の混乱と父親の死をめぐるそそのかし罪にさいなまれ神経症になり、幻覚症状に苦しみ、最後の方では廃人みたいになってしまう。主人公の三男・アリョーシャは心やさしく信仰心のあつい好青年で、アクの強い人たちに囲まれた中で一種の緩衝材の役割を果たしているが、時々何を考えているか分からないところがあり、実は不気味な存在なのだ。この手の無垢な青年は、あるきっかけによって極端から極端へ変わってしまうことがある。父親のフョードルは「父親」というカテゴリーに入れられないくらいの悪党で、子どもの面倒はまったく見ず下男に丸投げし、自分は女遊びばかりしている。あげくの果ては、ドミートリーの片思いの女性に入れ込んでしまい、ドミートリーの恨みを買ってしまう。

 男性陣ばかりでなく女性陣もそうそうたるメンバーである。ドミートリーやフョードルの恋相手のグルーシェニカは何人かの男の間を悪魔的に飛び回る。知的な美人のカテリーナは初めはまともな女性かなと期待させるが、ところがどっこいヒステリー狂で、グルーシェニカとの闘いのなかで我を忘れて罵倒を繰り返し、最後の法廷でもイワンを守るため態度を豹変させ、すべてを台無しにしてしまう。ドミートリーとの関係においても彼女は不幸な自分を楽しんでいる面も見せ、彼女の心の奥底に潜むマゾヒズムを垣間見せる。アリョーシャの恋人リーズもまともに見えたのだが、やはりやはり後半でその態度を一変させ、フョードルの死をあからさまに喜んだり、悪態をついたりイワンに告白したりでアリョーシャを散々苦しめる。人が苦しむ姿を見て楽しむサディズムの願望を全開にさせ、また一方で彼女はマゾヒストの側面も見せる。ドアの隙間に指をわざとはさんでにじみ出る血を見て恍惚としたりする。

 このように「カラマーゾフの兄弟」に登場する人物の多くは病的であり、それぞれがやむにやまれぬ欲望や性向を抱え、それを外の世界に見せながらも、意外とそれほど気にしておらず飄々と生きているように見える。


2 ドストエフスキーの狙い①〜読者の自省のテキスト
 ドストエフスキーが、このように病的な登場人物を次々と登場させるのにはいくつか理由があるだろう。一つには、一般人なら普段は心の奥底にひっそりと隠しているような欲望や性向を極端な形でクローズアップさせることによって、人間という存在のありのままの姿を愚直に掘り下げようとしていると考えられる。この物語には、吐き気がするような残酷な描写が溢れている。とてもついていけないような趣味や感性が溢れている。父殺しやヒステリーや神経症マゾヒズムサディズムなどのことである。
 しかし読んでいると、一方でこんな問いかけも沸いてくる。気持ち悪がっているが、本当にお前の中にそのような欲望はないのか? 絶対ないとお前は言い切れるのか? お前が考えるほど人間という存在は単純ではないぞ、美しくはないぞ、と。もしかしたらそんな欲望がわたしの中には実はあるかもしれない。いや、そんなものはない。ないはずだ。
 このようにカラマーゾフの兄弟を読んでいると、読者であるわたしたちの人間性について厳しく問いかけられているような気になってくる。私たちが無自覚に隠し持っている毒や闇について、はっきりとした形で気づかせてくれる力がドストエフスキー作品には内在しているようだ。


3 ドストエフスキーの狙い②〜周辺こそ中心という思想

 またふたつ目には、「変人」というものに対するドストエフスキーの独特の認識がある。序文でドストエフスキーはこう書いている。

…彼(アリョーシャ)が、変人といってもよいくらい風変わりな男だということである。…なぜなら、変人は「かならずしも」部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風の吹きまわしでしばしその変人から切り離されているといった事態が生じるからである…。(1巻10-11p)

 ここには、周辺こそが中心を体現している、というドストエフスキーの独特の思想の発露がある。振り返ってみれば、ドストエフスキーの作品は全般的に変人を主人公に設定している。たとえば「罪と罰」の主人公のラスコーリニコフは精神病患者のような振舞いをする。いや、「精神病患者ような・・」という生やさしいものではなく、完全に精神病だろう。「地下室の手記」の小官吏も自意識の海に沈みこんでいく変人だ。このような人物を主人公に据え続けるのは、ドストエフスキーの周辺へのこだわりが色濃くあるからだろう。
 この序文を読んでわたしは哲学者・内山節の「思想は時代に縛られている」という言葉を思い出した。戦後日本の思想をふり返ってみると、思想というものはおどろくほど時代を反映しているという指摘だ。思想家はそれぞれ自由に発想しているつもりでいる。受け手である庶民も、フラットな視点からその思想が良いと思う。しかしどちらにせよ、時代性からは自由になれない。内山の指摘はそんな内容である。時代のマジョリティも「なにか急な風の吹きまわしで」マイノリティになる。一方、今のマイノリティは次の時代にはマジョリティになる。ドストエフスキーの思想には、内山節の時代性の指摘と重なる部分があるのだ。
 昨今の風潮でもそれが証明できるだろう。小林多喜二の「蟹工船」が爆発的に売れているという。共産党が党員数を急速に伸ばしているという。ほんの2〜3年前までには考えられない社会変動だ。冷戦構造の崩壊以降、共産党や「蟹工船」は急速にその影響力を失っていった。新自由主義の台頭がそれに拍車をかけた。テレビの討論番組では、今回自民党の幹事長になった麻生太郎氏が、共産党の志位委員長に向かって「共産主義は最近あまり流行っていないみたいですが…」と、政策論争とは別の次元から批判していた。明確な根拠を示さず流行から批判するのは、麻生氏が時代の風潮にただ乗りしていた証拠だろう。かくいうわたし自身でさえ、共産主義の意義をまったく考慮しない時間を過ごしていた。もっとも共産党が今の時代のマジョリティに躍り出たわけではないし、なってもらったら困る面もあるのだが、確実にいえることは、この格差社会を背景にして、共産党を受け入れる社会の素地が先の失われた10年と期間と比べて格段にできていることは指摘できよう。