山崎豊子「白い巨塔(第1〜3巻)」

白い巨塔〈第1巻〉
白い巨塔〈第1巻〉山崎 豊子

新潮社 2002-11
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おすすめ平均 star
star創作と人命
star医者とは…
star財前の生き方に共感を得られる読者も多いのでは

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 国立大学の医学部を舞台に、スター教官の財前五郎が、根回し、金のバラマキ、利権の乱用、裏切りなど権謀術数をめぐらし、教授選挙や裁判闘争のたたかいを生き抜いていくストーリー。話のテンポが非常に良いので、読み始めるとついつい引き込まれてしまう作品だ。
1 社会人の典型的な2つのモデルを巧みにえがく
 閉鎖的で、自己保身が渦巻く日本の医学界の海を、したたかに生きる財前五郎と、その状況を嫌い、生命の尊厳を大切に学究にはげむ里見脩二助教授。この二人の生き様を対照的に描き、物語を展開させることによって、話の構図がクリアーになり、分かりやすいストーリーになっている。
 世渡り上手か、真実一路か。財前五郎里見脩二という、社会人の典型的な2つのモデルを対照的に浮かびあがらせることで、読者のわれわれに、社会人としてどう生きるべきか、問い直しさせてくれる作品といえる。かつてわたしの中学校時代の恩師は、「良い本というのは、自己反省を迫るような本のことだ」となかなか鋭いことを言っていたが、そのような意味においては、この本は良い本といえよう。わたしたちはこれからどう生きていけばいいか考えさせられる本なので、大学生などは社会に出る前に読んでいたらいいとおもう。
2 ノンフィクションの限界について
 ジョージ・オーウェルの傑作小説「1984年(Nineteen Eighty-Four)」はその最たるものであるが、時として小説はノンフィクション作品よりもリアリティをもつ、と私は思っている。それはノンフィクションには越えることのできない手法的限界があり、小説はそれを超えることができるからだ。
 ノンフィクションの限界としてまず第一には、取材相手の立場や今後のこと、書き手のしがらみなどがあり、取材で得たリアリティをすべて作品に盛り込むことが難しい場合がある。とくに、本書のように、社会のタブーに触れるような内容では、取材相手のことや自身の身の安全のことを思うと、書ける部分と書けない部分がどうしても出てきてしまう。たとえば、漫画家の小林よしのり氏は、かつてゴーマニズム宣言という本で、取材したオウム真理教事件についての印象を率直にマンガに書いて、VXガスにより暗殺されそうになった(小林よしのりゴーマニズム宣言』第158章に詳しい)。もちろんこれは極端な一例だが、程度の問題はあるものの、社会の現実を作品化にして世に出すということは、取材相手やライターに思わぬリスクを負わしてしまう場合がある。このリスクをおもんばかって、ライターはギリギリのところで書ける部分と書けない部分を峻別し、作品化している。書けない部分が出てくることはある意味、仕方のないことだが、その部分がもっとも話の核心だった場合、書かないことによってその作品のリアリティ自体が薄まってしまう。
 また第二に、独裁国家や違法集団など取材が難しい相手に対して、ノンフィクションという手法は無力な場合がある。内部に入って取材したり、また内部に精通している人にしっかりとインタビューできない場合、ノンフィクションはその分野に切り込んでいくことができないのだ。たとえば今、ミサイル発射で国際的に注目を集めている独裁国家北朝鮮の内実を描いたノンフィクション作品は少ないし、作品化されていても伝聞に基づくものがおおいため、いまいちリアリティ感に欠ける。だいたいライターが北朝鮮に潜入することが難しいし、政権内部に食い込んでいくことはほとんど不可能だ。そのような場合、ノンフィクションは無力だ(内部に精通している脱北者に詳しくインタビューするという方法は可能だが、脱北者はその後身の安全を案じてあまり語らない場合が多いようだ)。またイラク戦争前に、イラク政権内部で起こっていたことや、今のイランの権力の中枢で起こっていることは、われわれはほとんど知ることができない。国内に目を向けても、暴力団やマフィアに対するノンフィクションは非常に少ないと感じている。
 以上、ノンフィクションという手法の限界について、①取材相手や書き手のリスクがあり書けない部分がでてくる場合がある、②取材が難しい対象に対してノンフィクションは無力の場合がある、と整理してきた。しかしこのノンフィクションの限界を、小説という表現方法は乗り越えることができる場合があるのだ。
3 小説のもつリアリティについて
 新明解国語辞典によると小説とは、「作者の奔放な構想力によって、登場する人物の言動や彼等を取り巻く環境・風土の描写を通じ、非日常的な世界に読者を誘い込むことを目的とする散文学。」である。ここで重要なのは、「非日常的な世界」という小説の前提だ。この前提があれば、ノンフィクションの限界①②を乗り越えることができる場合がある。たとえば「①取材相手や書き手のリスクがあり書けない部分がでてくる場合がある」は、ライターが取材して得たタブーやドロドロの人間関係は実名報道では出せないかもしれないが、小説という「非日常的な世界」前提を掲げてしまい、現実を想起しつつ架空の人物を作り上げて物語をつむいでいけば、タブーやドロドロ人間関係を描ききることができる。そしてそこにリアリティが発生する。慎重に書いていけば、取材相手や自身にリスクを与えないことだってできる。本書「白い巨塔」は、著者の山崎豊子氏が日本の医学界をかなり突っ込んで取材し、たくみに小説的にカモフラージュしながら現実の医学界で起こっていることを書いている、ということは容易に想像できる。これが小説という手法の一つの強みである。
 また「②取材が難しい対象に対してノンフィクションは無力の場合がある」も、たとえば北朝鮮などの独裁国家の内実は、ジョージ・オーウェルの「1984年(Nineteen Eighty-Four)」を読めば、その恐怖は圧倒的なリアリティをもって感じることができる。もちろん実際に北朝鮮で起こっている細部の事実関係は「1984年」とは違うだろうが、独裁国家のもつ、凍えるほどの恐怖感はこの小説によっていかんなく知ることができる。実際に現地にいって取材することができなくても、小説家のすぐれた想像力、空想力があれば、実際に現場で起こっている空気を、見事に表現することができる場合がある。これがわたしのいう、時として小説はノンフィクション作品よりもリアリティをもつことがある、ということの意味である。本書「白い巨塔」も、小説という表現形態を採用したことにより、圧倒的なリアリティをもつことに成功したといえよう。
4 医学界、大学という閉鎖社会でのできごと
 本書の第1〜3巻は、前半部と後半部に内容が分かれており、前半は、財前が現教授の東と後任教授をめぐってあの手この手で激しく争うストーリーである。後半は、晴れて教授となった財前が、慢心から患者を死なせ誤診裁判が起こり、自らのメンツを保つために、これまたあの手この手で裁判闘争に挑んでいくストーリー。普段、なかなか表には出ない、医学界の閉鎖性、ご都合主義、また大学教授のエゴイズム、露骨な自己保身などが浮き彫りになり、社会認識を深める上でとても参考になる。わたしも大学に長くいたことがあるので(医学部ではないが)そのときの経験に照らし合わせてみれば、本書に書かれているいくつかの部分は、今でもそもまま通じる話であることを知っている。
 大学研究室の後任教授を選ぶのは形式的には教授会だが、実質的には前任教授の意向が大きく影響力する。本書の前半部では、財前助教授の所属する国立大学医学部において、現教授の退官がせまり、後任の教授を選ぶという物語設定になっている。現教授の東は、財前の活躍に嫉妬し、また彼の傲慢な性格をきらい、他大学からの教授移入を画策する。これに焦った財前助教授は、自らの昇進に執念を燃やし、自分のもつあらゆる資源を活用し、教授選に勝ち抜こうとする。これを契機に医学部の各陣営の思惑がいりみだれ、それぞれの候補者を立て、そして実弾攻撃(金のばら撒き)、非難・中傷、利権(学会のポストや研究助成金の支給)による票集めなどをバトルを繰り返す。
 「あいつは嫌いだから誰かほかの奴」人事は企業などでは当たり前だが、真理を探究し、浮世離れした大学でまさかそんなことが、と思う方もいるかもしれないが、大学教授といえどもしょせん感情的な動物なのである。いやむしろ、象牙の塔で閉鎖社会であるため外部チェックも効きにくく、感情的な部分が余計に増幅されている、と言っても過言ではない。優秀だけでは昇進できない。好き嫌い、私欲が必ずからんでくる。このような大学教官の世界のドロドロ部を、本書はたくみに描ききっている。
5 里見助教授という生き方についての私見
 財前の同僚の、第一内科助教授・里見脩二。命の尊厳を大切にし、一人一人の患者をトコトン丁寧にみる。人事などの思惑が入り乱れる大学で現状を嫌悪し、無視し、ただひたすら学究にはげむ里見。彼は財前教授の誤診を見抜き、そして患者側に立って裁判所での証言を含めて応援するが、裁判で負け、そして報復人事によって大学を追われる。誠実な彼は悲劇のヒーローであり、職業倫理に誠実な里見の敗北は、真面目に生きるだけでは生きていけない現世の不条理さを表している。著者の山崎氏の書き方をみても、里見は悲劇のヒーローだし、彼は正義の側として描かれている。しかしわたしは里見の生き方について一抹の疑問を覚える。
 たしかに一患者の立場からみれば、里見みたいな医者がいれば良いと思う。わたしも病気になったら彼みたいな医者にかかって、丁寧に診断してもらいたい。しかし一人の研究者の生き方として里見の生き方をみるとき、同僚の財前教授に真っ向から対峙し裁判闘争を闘う彼の選択は、果たして正しかったのだろうか、と疑問に思う。
 一言でいえば、性急すぎるのだ。里見のいう理想論はもちろん大切で、決して理想を追い求めることを放棄してはいけない。ただ、大学の現実はそれとは程遠いなかで、性急に理想だけを追い求めるのはあまりにも戦略がなさ過ぎるのではないか、と思った。ケンカは勝たなければ意味がない。負ければ、里見のように大切なものを失ってしまう。実際、里見は大学を去る羽目になり、生涯の目標だった学問の探求、医学の向上をめざす術を失ってしまった。正論吐いていればケンカに勝てるとは子どもの錯覚で、ケンカには現実的な戦略が必要だ。財前教授に代表される医学部の腐敗は長期間にわたって腐っていった末期ガンのようなものであり、すぐに変えられるものではない。まずはその現状認識が重要だ。長期的なスパンで変えていくという段階論的な戦略が必要となる
 わたしはかつて「21世紀の倫理を考える」というレポートの中で、「積み上げ型理想家」というモデルを提示したことがある。それは、これからのあるべき生き方というのは「積み上げ型理想家」でなければならず、それは「理想を持ちつつも、急激な変化を目指すのではなく、歩みは遅くとも、現実を踏まえた上で、一つ一つ積み上げて理想に向かうようなスタンス」というものである。理想と現実の狭間で、ある時は妥協し、チャンスを見つけては改善し、長期的に理想に近づけていくのが、社会を担っていく責任がある社会人としてのあり方ではないか、という強い問題意識をもってわたしはこのモデルを提示した。このモデルから里見助教授を捉えなおしてみれば、長期戦略がなさ過ぎるし、やはり性急すぎると言わざるを得ないのだ。
6 その他 
 相変わらず文章表現はすばらしい。しっかり勉強させてもらった。
「・・・不快な怒りとも、嫉妬ともつかぬ湿っぽい悪感が咽喉もとへ、這い上って来るのを覚えた」(上巻:12p)
「・・・病院の長い廊下には、まだ午前中の患者が折れ重なるように古びた椅子に座り、自分に廻って来る順番を待っていた」(上巻:12p)

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(私の本書の評価★★★★☆)
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