倉本聰の作品論

 先日のNHK番組で、倉本聰のラジオドラマ制作に密着したドキュメンタリー「倉本聰の創る世界」を見た。
 その中にハッとした言葉があった。

「音だけの世界に戻って、そこで空想力を…使う、お客に空想力を使わせるということはどういうことなんだろう。お客が空想力を使うってことの面白さを、今のテレビや映像は忘れてしまっているんですよね。でもラジオはそれができる世界なんですよね」

 分かりやすさや直情的な面白さが重視される現在、倉本の言うとおり、映画を見て、テレビ番組を見て空想するなどということは滅多になくなった。お笑い番組が流行り、瞬間的な面白さが溢れている。発言にはご丁寧にテロップが入り、実に「分かりやすく」伝えてくれる。しかし1から10まで丁寧に伝える映像には、空想力を惹起する力はない。だからその時は楽しくても、長期記憶にはほとんど残らない。

 わたしが倉本発言にハタとひざを打ったのは、偶然にも、以前のブログで私が書いた作品論での発言と重なるからだ。映画「スタンド・バイ・ミー」の作品評の中で私は次のように書いた。

「感動する映画というのは、きっと、見ている観客のイマジネーションを惹起するような映画だと思う。それは映画の物語世界や映像世界が、視聴者の頭の中でどんどんと広がって、映画で描かれていない部分までをもイメージできてしまうような作品。同時に映像や物語をフックとして、観客個々人の体験や想いなどを呼び覚ましてくれるような映画だと思う。別言すれば、映像に許容力がある映画、映像空間に余裕のある映画ともいえる。これを備えた優れた映画のひとつが、このスタンド・バイ・ミーである。」

 倉本のいう空想力が、わたしの書いた「イマジネーション」であり、それを呼び起こす作品には「映像に許容力があ」り「映像空間に余裕のある」作品なのである。それを担保している作品のひとつが「スタンド・バイ・ミー」なのだった。

 「北の国から」をはじめとする倉本作品にわたしがなぜハマるのか、今回の倉本発言を聞いて分かったような気がした。