長倉洋海「地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95」

地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95
長倉 洋海

新潮社 1996-06
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1. 長倉洋海の写真の魅力

 長倉洋海が撮る子供の写真には、いつもハッとさせられる。
 そこにいる子供たちは、やわらかな光につつまれて、笑ったり、泣いたり、熱中したり、夢見たりしている。そこにはあるのは、自由奔放な無邪気さだ。この写真集の中でもっとも印象ぶかい写真のひとつに中米のエル=サルバドルの写真がある。3〜5歳くらいの少女が木の枠に寄りかかって、じっと、上方の宙を見つめている。長く伸びた髪はぼさぼさで、口のまわりには泥かなにかの汚れがついていて、鼻水もたまっている。そんな少女が、透き通るような瞳で宙を見つめているのである。この写真を初めて見たとき、なんて美しい少女なのだろうと、思わず見とれてしまった。
 長倉洋海は、世界の紛争地を被写体にして活動をつづけているフォト・ジャーナリストである。しかしこの何年かは、彼の発表する写真に血が流れることはすくない。それはあとで述べることになるが、彼自身のジャーナリストという仕事に対しての考え方の変化があったからではないかと思われる。

2. 長倉洋海の言葉の魅力

 以前、札幌で開かれた長倉洋海の講演会に参加したことがある。150人ほどの人が集まり、波を打ったように静まる会場で、とつとつとしゃべる長倉氏の声に聞き入った。徹底した現場取材から掘り起こされる人生観・死生観は、日本というひとつの社会の価値観にしばられているわたしには新鮮だった。彼は言う。
「我々はいつも自分を世界の中心とかんがえて、自分と社会・自分と世界・自分と宇宙という発想をする。すべて自分中心に物事をかんがえる。しかし、インディオはこれとは違った考えをする。インディオは、人間は宇宙の中のちっぽけな一つの存在に過ぎないとし、すべての中心は宇宙である、として物事をかんがえる」
 このインディオの発想は、今後の平和な世界構築のうえで重要な考え方になる気がする。

3. 取材対象への継続的な関わり

 長倉氏の取材姿勢で関心するのは、出会った取材対象の人々を継続的に見守り続けている点だ。写真集やエッセイを読むと、出会った子どもが成長する過程や、マスードなどの活動家の行動を継続的に取材しているのが分かる。
「出会った人々、ひとりひとりの生き様をずっと見続けていく」
 長倉氏は講演の最後をこの言葉で締めくくった。過熱報道などで今の大手のマスコミの取材姿勢が問題になっているが、一つ一つの出会いを大切にし、出会った人々を追い続ける長倉さんの取材姿勢は、簡単にできるものではないが、大切なもののような気がする。
 カメラひとつで日本を飛び出した若者は、根なし草のように世界の紛争地を歩き回り、アフガニスタンのゲリラのリーダー・マスードの密着取材をはじめ数々の現場をモノにしてきた。しかしその過程で、彼自身のジャーナリストという仕事に対する考え方が変化してくる。初めは戦場らしい写真を撮ろうと戦場に飛び込み撮影してきたが、取りたい写真の形が変わってきたのである。本当に撮りたかったものは、人間だった。
『・・・やっと、自分が撮りたいものが見えてきた。それは「人間」。戦闘でもなく、死体でもなく、生きている人間こそが私に一番の感動を与えてくれる』(p364)
 紛争地に飛び込み、人間を追い続ける長倉氏を、それこそ今後も「ずっと見続けてい」かなくてはならないと思っている。
地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95
(評価★★★☆☆)

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