毛利甚八「家栽の人(1〜15)」(マンガ)

家栽の人 (1)
毛利 甚八

小学館 1988-12
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おすすめ平均
人を育む家庭裁判所

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1.作品概要

家庭裁判所の判事・桑田が主人公。頻発する少年事件の対応に追われながらも、少年・少女を取り巻く状況を調べ、解決策を考える桑田判事の手腕がみどころ。

2.作品評

 この作品は、私が大学の博士課程に在籍していたころ、同じ研究室だった友人に「ぜひぜひ!」と勧められ読んだものだ。面白かったので、すぐに全15巻を読破してしまった。
a.「家裁の人」の魅力
 主人公の桑田判事は、忙しい家庭裁判所の中で、やっつけ仕事をしないで、一つ一つの事件を丁寧に扱い、事件の背後にある動機、そして問題構造を見つけて、解決の道筋を立てようとする。その桑田の姿勢には、社会科学者の姿勢と通じるものがあり共感した。
「私達が少年に対してできることは、小さなことです。だけど小ささを恥じて、それをしまい込む人が多過ぎるんです」(8巻、98p)
という言葉は未だに記憶に残る名言だ。
b.「家裁の人」批判
 しかし、この作品には疑問もある。2つだ。
 第一に、主人公の偉人化による現実感の希薄化だ。この手の作品にはよくあることだが、主人公の桑田判事をあまりに「すごい人」と設定し過ぎているので、逆に作品の現実感を失わせている。例外の章もあるが、ほとんどの章で桑田は神のごとく的確な判断をし、加害者と彼らを取り巻く人々を更生に向かわせてしまう。一言で言ってしまえば、そんなすごいやつ実際にはいねえよ、という突込みが可能なのだ。実際の人間は常に不完全で不純にまみれているものだから、そのような面を一切カットして優れた部分ばかり見せられると、逆に作品の現実感が薄れていってしまう。昔、テレビで放送していた刑事ドラマに「特捜最前線」というものがあったが、テレビドラマには珍しく「何で俺は刑事やっているんだ」「何もできてないではないか」と苦悩を前面に出しており、非常にリアリティを感じるドラマだった。このレベルまでとは言わないが、本書も、もうすこし桑田判事の不完全な部分を出し人間らしさを見せてくれれば、リアリティが出てきたかもしれない。
 疑問の第二は、これは本質的な疑問なのだけど、桑田判事は加害者の更生ばかりを考えて、被害者の立場を軽視しているのではないかというものだ。一例を挙げよう。8巻の4章に、荒れた少年が駅で喧嘩をし、仲裁に入った警官を投げ飛ばしてしまうという事件がある。この事件に対して桑田判事は少年に理解を示しながら不処分にするが、この措置は少年の今後にとっては(もしかしたら)良いかもしれないが、投げ飛ばされた警官の側から見ればたまったものではない。少年はこの他にも友人を蹴ったり、見ず知らずの通行人をどついたりしている。それでも桑田判事は「不処分」にしてしまうのだ。
 裁判所の役割は2つある。ひとつは罰を与えること、そしてもうひとつは加害者の更生の手助けをすることだ。前者については、法治国家である以上、法を破った者にはいくら少年でも罰を受けてもらうことは当然だ。凶悪犯罪なら、私は少年でも死刑も免れないと思う。ルール社会なのだから、ルールに重みを持たせるためにもルール破りには罰を与えなければいけない。もちろん後者の、加害少年の今後の更生を手助けすることも大切だ。しかし「家栽の人」では、後者ばかりがクローズアップされ、前者の罰をあえたえるという裁判所の役割を放棄しているような印象を受ける。原作の毛利甚八は、法治国家の話題を避け、市民主義的な作品にしたいのか、みたいな邪推をしてしまう章もある。イデオロギー的意図があるにせよ、ないにせよ、裁判官として主人公桑田は偏りがあると言わざるを得ない。
(評価★★★★☆)

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