五十嵐匠「地雷を踏んだらサヨウナラ」

地雷を踏んだらサヨウナラ
浅野忠信 一ノ瀬泰造 五十嵐匠 川津祐介

おすすめ平均
もう一度・・・
近しい人の死に触れてなお一層アンコールワットに惹きつけられていく泰三の生き様が示唆す
素晴らしい
アンコールワットが見たくなります。
モチーフから思うよりもはるかに良い映画

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1. 作品概要

 70年代、激動のインドシナ半島へ単身飛び込んでいった若き戦場カメラマン・一ノ瀬泰造。泰造はその向こう見ずな並はずれた行動力で、戦場の最前線でカメラを構え、シャッターを押し続けた。世界中から集まったジャーナリストや地元の人々からは親しみを持って「TAIZO」と呼ばれていた。そんな彼の心を捉えたのは、当時、反政府軍クメール・ルージュの聖域であった遺跡“アンコールワット”。そこは、西側のジャーナリストは誰一人として近づくことが不可能な、いわば“難攻不落”の地だった。
「もし、うまく地雷を踏んだら、サヨウナラ!」
1973年11月、友人にこう宛てた手紙を残し、泰造はアンコールワットへ単独潜入を試み、その後消息を絶つ。26歳の誕生日を迎えたばかりだった*1

2. 作品評

 浅野の演技や、ストーリー描写の荒さ(丁寧な描き方ではない)の点で不満があるが、個人的には非常に印象に残った作品。その理由は次の2点だ。
a. 私のアンコールワット体験と泰造氏の死
 泰造氏が一攫千金、名声獲得を狙って入ったアンコールワットは、私が2000年6月に訪れている場所である。だから、映画の舞台のアンコールワットシェムリアップの町は、私の記憶の中にはっきりと存在し、非常にリアリティがあり、かつ親近感を感じた。
 また私が気軽に行って楽しんだアンコールワットが、わずか30年前には内戦の激戦区であり、泰造氏の死に場所であることに対して、複雑な心境になった。政治の恐ろしさ、イデオロギーの恐ろしさ、人間の営みのおろかさ。重い過去を背負ったこの土地を、何も知らずに楽しく観光してしまった自分への罪悪感。
b. 青年期の落とし穴
 青年期の頃は、自分とは何なのか、自分はどれほどの人間なのか、自分は生きる価値があるのかについて、くよくよ悩んだりするものだ。そして、自分のアイデンティティの確立や社会的な名誉獲得を求めて、危険を冒して行動したくなる衝動にしばしば駆られる。私自身にもその経験がある。自分が分からず、自分の未来が分からず、特に20歳前後は、ただ悶々と日々を過ごしていた。そして私は大学を休学し、危険地帯へ飛び込んでいった。その初っ端が、ヨーロッパアルプスの最高峰・モンブラン単独登頂への挑戦だった。実力不足であろうが、準備不足であろうが、無謀であろうが、とにかく今、これに挑戦しなければ自分は終わってしまうのではないかという、やむにやまれぬ危機感。この衝動に一度駆られてしまうと、親や親戚や恩師や友人など、心ある人がいくら説得しても、意味がない。とにかくその目標にぶち当たって、自分で納得するしか、解決の道はないのだ。
 泰造氏は、一攫千金を求めて秘境・アンコールワットに向かったといわれている。明示されてはいないものの、フリージャーナリストとしてここで一旗挙げておきたいという名誉心もあっただろう。泰造氏はこの青春の賭けに敗れて死んでしまった。私もモンブランで遭難し賭けに敗れかけたが、何とか生きて帰ることができた。泰造氏と私の運命を分けたのは、ほんの些細な分岐に過ぎない。いつ私が泰造氏のように夭折してもおかしくなかったのだ。
 運命というものの不思議さ(=生・死というものの偶然さ)を感じずにはいられない。
 (04.5.2)
地雷を踏んだらサヨウナラ
(評価★★☆☆☆)

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*1:一ノ瀬泰造:1947年、佐賀県武雄市生まれ。1970年、日本大学芸術学部写真学科卒業、UPI通信社東京支局で働く。1972年3月、ガンボジアに行き、フリーの戦争カメラマンとしてスタート。以後、ベトナム戦争を1年間取材し、「アサヒグラフ」「ワシントンポスト」など、内外のマスコミで活躍した。1973年11月、アンコールワットへ単独潜行したまま消息を断ち、1982年、両親によってその死亡が確認された。